(7)親子対決 父率いる苫東と試合 81年初戦苫南リードも逆転許す

  • 特集, 私と苫小牧 アイスホッケー
  • 2020年6月8日
初対決の試合終了後にインタビューを受ける(右から)本人と苫小牧東監督当時の田中正氏。苫小牧民報社撮影=1981年11月、岩倉体育館

  「家では一切アイスホッケーの話をしてないことにしような」。ある日、苫小牧市旭町の実家から試合会場の表町、王子製紙スケートセンターまで歩いて向かう途中、苫小牧東監督の父、正が私に口裏合わせを求めてきた。1981年から4季にわたって父のチームと私の苫小牧南が戦い、親子対決を繰り広げた時期のことだ。

   スポーツ史上まれな一戦を珍しがり、テレビ局や新聞社などマスメディアが、試合をするたびに押し掛けた。当時はまだ両親と同居していたこともあり、「家でどんなことを話しているのか」とよく質問された。本当は、対決の話は抜きにしてアイスホッケー談議をすることは多かったが、あまりの取材攻勢に二人で嫌気が差していた。

   公式戦の初対決は81年11月27日の道南リーグ(当時)。場所は三光町にあった岩倉体育館だった。私は赴任1年目でまだコーチという立場ではあったが、試合は中盤まで2―0で苫南がリード。しかし、第3ピリオドに一挙4得点され3―4で逆転負けした。「逃がしたサカナは5センチのシシャモじゃなくて、5年泳いできたシャケだった」―。試合後に苫東OBで父の教え子でもある苫南外部コーチで元岩倉組FWの岡島徹さんが報道陣に語った言葉だ。

   84年に釧路市であった高校総体では、トーナメント3回戦で大会史上初の親子対決が実現した。第2ピリオドまでに1―6と大きくリードされたものの、第3ピリオド残り7分から5得点の猛反撃。最後は6人攻撃を仕掛けたが、あと一歩及ばなかった。

   数ある対決のなかで印象に残るのは、父が定年退職して苫東の監督から退いた85年。1998年長野五輪の男子日本代表にもなった元王子製紙の松浦浩史をはじめ、元雪印の西島貴裕らが名を連ねた苫東に練習試合で勝利した。「今年こそは」と手応えをつかんでいたが、シーズン2カ月ほど前に父が同校の外部コーチに就いた途端、形勢は逆転。11月の道南リーグで対戦し、1―7の完敗だった。「もう退職したんだからやめてくれよ」と悔しくてたまらなかった。

   父は分からないが、私自身親子対決は毎回意識していた。倒す、などという生意気な考えではなく、とにかく胸を借りるつもりだった。ただ、どんなに善戦しても引き分けがやっと。まるで父に「あいつのことだから、こう来るだろう」と戦術が見透かされているようだった。

   不思議な感覚もあった。対決中、苫東の選手が好プレーを見せると、無意識に「ナイス」と声を出しそうになる自分がいた。緑色の東高ユニホームを着た選手が、自分の教え子だと錯覚を起こす瞬間があった。今になって考えれば、苫東には勝ち続けてもらいたいという気持ちが心のどこかにあったのだと思う。まだまだ若かったのだ。

  (構成・北畠授)

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