幼少期から現在に至るまで「ずっと絵を描くことが好き」とほほ笑む。札幌に単身修行に出掛けた15歳から半世紀以上を広告看板制作にささげ、現在は悠々自適に油彩画を描いている。かつて看板などを手掛けた縁で、苫小牧市旭町のファッションメールプラザから依頼され、今年も同所で通算8回目となる個展「絵を楽しむ―遠藤忠志油彩画小品展」を30日まで開催している。
1933(昭和8)年、岩手県葛巻村(現葛巻町)で7人きょうだいの長男として生まれた。5歳の時、三笠市唐松に家族全員で移住。父は新幌内炭鉱の炭鉱夫として家計を支えたという。「石炭は豊富にあり、冬は窓を開けても平気なくらいストーブを真っ赤に燃やして暮らせた」と幼少期の暮らしを振り返る。この頃から絵を描くのが好きで39年、6歳の時、学芸会で風景画が廊下に張り出されると「母が赤飯を炊いて喜んでくれた」とにっこり。
食べ物が配給制になった41年、子供心に戦争が近づいてくるのを感じていたが「夏は幾春別川で水遊び、冬は雪合戦と毎日10人以上の仲間と遊んでいた楽しい思い出ばかり。中学卒業までの9年間、絵画の学級代表に選ばれ続けたのも自慢」と話す。
市立三笠中央中学校を卒業した48年、15歳で札幌市内の宮田看板店に見習いとして就職。先輩職人らの絵の具を溶いたり、早朝から工場のストーブをたいたりと、ほぼ雑用の毎日だったという。24歳になると、店に出入りしていた江別市の劇場支配人、樺澤徹さん(故人)が才能を認め、専属の職人兼デザイナーとして引き抜いてくれた。
樺澤さんは当時、映画館やスーパーの経営にも乗り出し、チラシのデザインから映画の看板制作まで手掛ける遠藤さんの働きぶりに注目していた。「まさに恩人だった」と今でも感謝している。30歳で結婚後、69年に親戚や知人らの縁で、工業都市としての可能性を大いに秘めた苫小牧市内のデザイン会社丹工社に入社。30畳(約5・4メートル×約9メートル)くらいのトタン製看板で苫小牧ホテルニュー王子の完成予想図を一人で手掛けるなどの仕事を残した。
75年、42歳で独立し、同市内に「アドスタジオ・エンドー」を設立。「実力を買ってくれる人たちが口コミで評判を広げてくれ、おかげで忙しくさせてもらえた」と感謝する。85年には「自信作」という王子製紙苫小牧工場水力系発電所鳥瞰(ちょうかん)図を制作するなどしたが2001年、67歳で皮膚がんを患い、左目を失明。廃業を余儀なくされた。
片目を失っても絵をやめなかったのは「自分を支えてくれた人たちが求めてくれたから」と話す。長男がプレゼントしてくれた油彩画セットと入院中に壁に飾ってあった油彩画で元気を取り戻したことも大きい。「好きな絵を見てもらい、心癒やしてくれたならうれしい。これからも好きな絵と一緒に生きていく」
(半澤孝平)
遠藤 忠志(えんどう・ただし) 1933(昭和8)年11月、岩手県葛巻村(現葛巻町)生まれ。49年、三笠市立三笠中央中学校卒。75年、苫小牧市見山町に「アドスタジオ・エンドー」を設立。苫小牧美術愛好会会員。物心ついたときから絵を描き続けている。同市澄川町在住。