(6)全国準優勝 86年苫南指導時に快進撃

  • 特集, 私と苫小牧 アイスホッケー
  • 2020年6月6日
高校総体準決勝で勝利し、控室で歓喜に沸く苫南メンバー=1986年1月、群馬県

  苫小牧南高指導2年目の1982年から早くも監督に抜てきされた。アイスホッケー部創部初年度を支えてくれた岡島徹さんがコーチを退任。ここから、単独の指導者として長く歩んでいくことになる。

   苫南チームは言われたことをきっちりこなす忠実なホッケースタイルで、型にはまればすごみを発揮した。ただ、全国屈指の実力を誇った駒大苫小牧や苫小牧東には何度やっても及ばなかった。

   試合展開は刻一刻と変化する。南の選手にはそれに対応する臨機応変さが欠けていた。同じ高校生なのに、なぜうちにはできないのか―。今思えば、答えは簡単だった。私自身が生徒に考えさせる指導をしていなかったからだ。自分の力量を過信していた時期。教えたこと、言ったこと以外は絶対にするな、と強制していた。

   それでも選手たちは若い私を信じてついてきてくれた。道大会で83年に3位入賞し、翌年には決勝まで進んだ。日光市開催の85年高校総体で3位入賞し、父の正が率いる苫東も同じく3位で肩を並べた。

   続く85~86年シーズンは86年1月に苫小牧であった道大会に挑んでつまずいた。トーナメント2回戦から登場。釧路江南に0―4でまさかの完封負けを喫した。相手GKの神懸かったセーブはもちろんだが、前日に江南の試合を観戦して「こんなものか」とチームに慢心が生まれた。

   ベスト8以上に与えられる高校総体出場権を逃しかけたが、そのうちの帯広柏葉、帯広北が権利を辞退。2回戦までに敗れたチームに2枠が回ってきた。「江南に負けたら全国なんか出ない」と私も息巻いていたが、いざとなると惜しくなる。前回全国3位の実績が幸いし、切符を譲り受けられた。

   すぐに当時主将の相木健一の自宅を訪ねた。「これから俺は高校総体に出るか出ないかの会議に行く。お前たちにもう一度試合をやる気持ちはあるか」とうそを言い、奮起を促した。答えは「絶対頑張ります」。そこから毎日、学校リンクで徹底的に鍛え直した。私は寒空の下、夜通し水まきを行ったおかげで両足が神経痛になり、母の元子にマッサージしてもらいながら眠りに就く日々を過ごした。

   道大会から1週間後に迎えた群馬県開催の高校総体で、つらい練習に耐え抜いた選手たちは躍動した。トーナメント準決勝では全国2強の一角、釧路工業を6―4で下した。選手たちは歓喜の輪をつくり、涙を流す者もいた。準決勝の次の試合を控えていた苫東外部コーチの父、正も駆け寄り、「おめでとう」と選手一人一人に握手してくれたこともうれしかった。

   駒大苫との決勝は4―15で及ばなかったが、黄金期を迎えていた相手に4得点は立派だった。

  (構成・北畠授)

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