(5)初任校は苫南高 体育教員第一歩踏みだす

  • 特集, 私と苫小牧 アイスホッケー
  • 2020年6月4日
苫南高の氷上練習中の光景。=1980年代半ば、苫小牧市ときわスケートセンター

  教員生活が始まったのは1981年度。その年の3月、北海道教育委員会に行って初任校が苫小牧南になると通達を受けた。そうなるとは考えていなかった。

   その2カ月前の1月に東京都内から全国高校アイスホッケー大会があった山梨県で苫小牧東を応援しに行った時、道外校と大味な試合をしているチームが苫南だった。栃木今市に45―0。私が高校を卒業後に創立した学校。アイスホッケー部があったことをその時に知った。

   苫南で体育教員としての第一歩を踏み出し、創部2年目だったアイスホッケー部の顧問にも就任した。先輩教員の監督は競技未経験者だったが、外部コーチは苫東高OBで、かつて日本リーグ草創期に岩倉組のエースFWとして活躍した岡島徹さん。規律正しい校風で真面目な生徒が多く、戦力は市内で3、4番手ではあったが伸びしろも感じた。

   赴任後すぐに行動した。春から夏にかけての数カ月間は、氷上練習がない。当時の主将でDFの平野利明を車の助手席に乗せて陸上トレーニングの場所探しをした。平野は後に明治大から古河電工に入って活躍した選手だ。息子は現在、北米プロアイスホッケーリーグ(NHL)の下部アメリカンホッケーリーグ(AHL)などでプレーしている裕志朗君。

   一帯が錦岡と呼ばれていた頃。クロスカントリーコースを発見した。学校をスタートして丘の上にあるゴルフ場の樽前カントリークラブへ向かい、かつて動物園や温泉などがあった施設の脇を通り、明徳小学校に向かって下って行く10キロほどの道のり。

   とにかく毎日のように走らせた。坂になると全員で馬跳び。終われば動きを止めずにランニングして1時間以上かけて明徳小近くの坂に到達する。その急坂でも数種類の運動をした。当時の選手たちは、よっぽどつらい思いをしただろう。

   20代前半だった私も体力には自信があったので、よく一緒に走った。後に古河電工入りする山中信雄もいた。苫南から王子製紙の主将や監督、女子日本代表の監督などを歴任した山中武司の兄。チーム屈指の体力自慢ともよく勝負したが、負けたことはなかった。競走までに十分弱らせていたからなのだが。

   日曜日には、当時の市内高校アイスホッケー部員がやっていたゴルフ場キャディーのアルバイトがあった。冬の氷上練習で使う屋内スケートリンク賃料を部員が稼ぐ習慣だった。苫南メンバーが樽前カントリークラブで早朝から働く日には私も毎回立ち会った。懐かしい時代だ。

  (構成・北畠授)

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