1977年に学生スポーツに憧れを抱いて早稲田大に進学。スケート部ホッケー部門に所属した。卒業後に当時の日本リーグ加盟実業団入りする村井範幸さん(古河電工)、池田正幸さん(同)、中野浩一さん(国土計画)ら苫小牧東高時代の先輩も在籍していた。
当時は苫東、釧路湖陵、帯広柏葉、八戸、日光といったわずかな進学校からしか競技経験者が入らず、私の同期も最初は八戸高から来た1人だけだった。チームは2セット回しがやっとの状況。セット間のレベル差も大きく、1セット目が3分近く出ると続く2セット目は30秒もしないうちに交代していた。
週刊誌に「早稲田の衰退」と見出しが躍るほど、各競技が低迷期を迎えていた。ホッケー部門も法政大黄金期の77年関東大学アイスホッケーリーグ1部で全敗し最下位。2部優勝の中央大と入れ替え戦で勝利し、なんとか残留を決めるほどだった。
当然、歴代OBからの風当たりも強かった。主将になって間もない80年の春、「もし2部に落ちたら、お前は一生そのときのキャプテンと言われ続けるからな」と半ば脅しのような激励を受けた。これは負けられないと、同年秋の関東大学リーグでは東洋大、専修大を下すなどしてなんとか3位で終わりほっとした。
話は前後するが、「どんなものでもいいから資格は取っておけ」との父、正の教えに従い教育学部に入ったものの、教員になるつもりはまったくなかった。1年生だった78年の1月18日、早大アイスホッケー部当時の秋葉武士監督の都内自宅に伺った。72年札幌、76年インスブルックの両五輪で日本代表だった人。目的は苫小牧市で開かれていた全国高校大会決勝のテレビ中継を見ること。3年ぶりに決勝進出した母校と、4年ぶり王座奪還を狙う苫小牧工業が激突した。
共に高校卒業後に王子製紙へ進んだ苫東の高橋啓二、苫工の百井修治両エースをはじめとした顔触れが一進一退の攻防を繰り広げた。先手を取ったのは苫東。第1ピリオド5分すぎから3連続得点するなど、第2ピリオドを終え5―3でリードした。「これは優勝だ」と思ったが、第3ピリオドに苫工の猛反撃に遭って7―8の大逆転負け。
テレビ画面には、ベンチ付近のフェンスにもたれて泣き崩れる生徒たちと、それを心から慰労する監督の父、正の姿が映し出された。母校が負けた悔しさと裏腹に「なんて美しい世界なんだ。俺もこの場に立ち会いたい」。体中に衝撃が走った瞬間だった。
教員になろうと一念発起した。都内の書店をはしごして必要な教本を買いそろえ、毎日欠かさず勉強した。思わぬ形で父の背中を追い掛けることになった。(構成・北畠授)
田中正(正靖さんの父)
1924(大正13)年、苫小牧市生まれ。旧制苫小牧中学校(現苫小牧東高)の1期生で、登別国民学校、苫西小学校勤務を経て50(昭和25)年から苫東高教員としてアイスホッケー部を35年率いた。10度の全国高校総合体育大会制覇をはじめ、後の日本リーガーと男子代表を数多く育てた。全国高校体育連盟スケート部アイスホッケー委員長を30年間歴任。2014年5月に89歳で他界した。