同期9人の中で一番遅れて入部した。中学時代にアイスホッケー部だったのは2人で、他は私と同じ他競技に励みながら「草アイスホッケー」を楽しんでいた生徒だった。
評判通り、父、正の指導した練習は厳しかった。スケート靴を履きたくないと思うことが何度もあった。つらかったのは冬休みの学校リンク合宿だ。まずは午前8時半から正午まで練習。スケートを脱がずに1時間の休憩後、再び氷上トレーニングがあった。
天候によっては雪かき作業なども加わる。憧れを抱いた小学生のときは、選手たちがリンクで楽しく遊んでいるように見えた。実際やる立場になると苦痛以外の何物でもなかった。
全道、全国の両大会で入賞を逃す悔しさを目の当たりにした1年時の1973年度。私は冬の道南地区新人戦からFW主力選手として試合に出るようになった。「お前と同じ力量の選手がチーム内にいたとすれば、試合には出さない」。父には宣言されていた。
2年時の東は強かった。超高校生級と言われた池田正幸主将がセンターフォワード、細田秀夫、弘中秀樹の両選手ウイングの看板セットを擁し、7年ぶりに全道大会を制した。
全国制覇も堅いと言われていたが、山梨県で開かれた75年2月の高校総体で思わぬハプニングに見舞われた。河口湖畔のホテルに泊まった。避暑地の建物故か暖房設備がなく、主力メンバーが風邪でばたばたと倒れた。なんとか決勝にたどり着いたが、得点源の細田さんが欠場するなどして2―4で駒大苫小牧に惜敗。ここから同校が頭角を現してきた。
自分たちが3年生の代となった75年度道大会は2位、八戸市開催の高校総体で後に日本リーグ実業団の十條製紙に進む選手が多くいた釧路第一に準決勝で敗れ、3位だった。
部活指導。今とは時代が違うのでこんなこともあった。負けた日の夜、僕らが破れかぶれになって旅館内で騒いだ。そこに、リンク外の振る舞いに人一倍厳しかった監督の父が現れて平手打ちされた。頬をたたく音が響く。その一件の後、仲間たちが青ざめた表情で私に尋ねた。「正靖、大丈夫か」。やられた本人は気付かなかったが、「バキーン」と相当な力が込められた音だったそうだ。
親子で歩んだ3年間。救われたのは、仲間や先輩たちが私を監督の息子と特別扱いをしなかったことだ。私の前でも父の悪口を隠さず言った。また父も、自宅に帰ればいつものおやじとして振る舞ってくれた。充実した高校生活を送れたのは、紛れもなく周りの人たちのおかげだった。(構成・北畠授)