(2)入部騒動 2競技掛け持ち案は一蹴 曲折経てバスケ部入り断念

  • 特集, 私と苫小牧 アイスホッケー
  • 2020年5月29日
苫小牧東高に入学=1973年4月、自宅前

  1973年に憧れの苫小牧東高に入学した。授業が始まると、二つの部活動から入部の誘いを受けた。一つはバスケットボール部。東中時代の先輩が私の存在を聞き付け、「練習に来い」と言うのだ。もう一方は、もちろんアイスホッケー部。卒業後に日本リーグの国土計画(当時)で活躍した1学年上の細田秀夫さんが、毎日昼休みになると教室に顔を出した。

   すぐに返答はできなかった。高校入学を控えた3月末に運動のし過ぎで下肢静脈瘤(りゅう)になった左足を手術。医者から1カ月の運動禁止を言い渡されていたからだ。両部にはそのことを伝え、なんとかお引き取り願う日々を送った。

   ある日の放課後。練習するバスケットボール部を見た。手術の痛みはすでになく、運動したい気持ちでいっぱいだった私に悪魔のささやきが聞こえた。「遊んでいけ」。練習に参加し、日もすっかり暮れた夜7時ごろに帰宅すると、玄関先に父の正が立っていた。

   「なんで遅くなったんだ」。静かな口調で事情を聴いてきた。バスケットボールの練習に出た、と言った途端、顔色が変わった。毎日誘いに来ていたアイスホッケー部の細田さんに断りを入れない私の不誠実さに激高。「飯を食う資格はない」と自宅を追い出されてしまったのだ。

   もちろん、バスケットボール部の練習に参加したことに悪気はなかった。長く運動を止められているもどかしさに、魔が差しただけだった。腹をすかしながら軒先で待つこと約1時間。玄関を開けてくれたのは、母の元子だった。「お父さん、寝たから入りなさい」。助かった。

   後日談だが、大学生時代に細田さんとその話をする機会があった。聞けば、細田さんは父に頼まれて私を勧誘していたという。怒るのも無理はないと、ようやく理解した。

   5月に入ってようやく医者から運動の許可が下り、いよいよ入部の判断が迫られた。バスケットボール部の顧問から部活の掛け持ちを提案され、父にも相談したが「何を考えているんだ」と一蹴された。

   中学まではホッケー以外にもいろんな競技を経験しろと言っていたのに、理不尽なと思ったが、「高校は今までとは違う。一つに絞らなければ全部が中途半端になる」と諭され、掛け持ちを断念。バスケットボール部に丁重な断りを入れ、紆余(うよ)曲折を経てアイスホッケー部の一員になった。(構成・北畠授)

   田中正靖 1957(昭和32)年、苫小牧市生まれ。苫小牧東高、早稲田大でアイスホッケー部に所属。同大卒業後の81(昭和56)年に教員となり、苫小牧南高へ赴任し、部活指導をスタートさせた。苫小牧西、苫小牧東で33年にわたって監督などを務め、2020(令和2)年3月末で教育の現場から退いた。

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