(1)競技と出合う 氷上で遊び高校部活へ3校で指導者 田中正靖さん

  • 特集, 私と苫小牧 アイスホッケー
  • 2020年5月28日
アイスホッケーに夢中だった小学生時代=1968年冬、若草町にあった苫小牧東高旧校舎のリンク
アイスホッケーに夢中だった小学生時代=1968年冬、若草町にあった苫小牧東高旧校舎のリンク
田中正靖さん
田中正靖さん

 1957年4月初旬に生まれた。祖父は初代苫小牧市長の正太郎、父は苫東高アイスホッケー部を35年間率いて10度の全国高校総合体育大会制覇などを成し遂げた正。祖父の代から続く「正」の字は、兄の正志と私にも受け継がれた。母、元子の1字も使って「正元」、春に生まれたから「正春」。いろいろ案はあったが、最後は正靖に落ち着いたようだ。

 時は流れて、31歳で長男を授かった。当然「正」を付けなきゃいけないと思っていたが、父に「いいかげんやめるべ」と言われたのは意外だった。

 初めてスケートを履いたのは1960年の3歳のころ。毎年冬になると、父のいる苫東高の屋外スケートリンクに母と兄と一緒によく通った。午前、午後はアイスホッケー部の練習があるので、昼休みの時間を目掛けて滑りに行く。父は、指導の合間を縫って私らをだっこしたままスケートを滑ったこともあった。

 東高の生徒にもよく遊んでもらった。当時アイスホッケー部は、冬休みになると学校の理科室に合宿していた。その光景がとても楽しそうで、よく部屋に入り込んでは畳んで積み上げられた布団に登ってはしゃぎ回ったり、崩したりしていた。それを練習で疲れ切った下級生が直しに来る。今では申し訳ない気持ちだが、本当によくかわいがってもらったし、毎年冬休みが待ち遠しかった。

 苫東中ではアイスホッケー部に入るつもりだったが、「ホッケーは高校に入ったらなんぼでも教えてやる」と父に言われ、バスケットボール部に所属した。背は小さかったが、素早さとジャンプ力を買われてゴールに近いフォワード系のポジションを任された。3年生で主将になり、市内大会で優勝。道大会にも出場した。

 ただ、冬になるとよく部活をサボって市内のスケートリンクを転々としながらアイスホッケーに興じた。クラスや町内会対抗といった競技大会が目白押し。仲間同士で小遣いを出し合い、当時1時間貸し切り700円だったと記憶する苫小牧市ハイランドスポーツセンターを使ったこともあった。好き勝手がたたって、中学2年の終わりにバスケットボール部の顧問から退部通告。なんとか許しを得たが、高校受験1カ月前には教頭先生から職員室に呼び出され「受験勉強しなさい」と説教されたことも懐かしい。

 幼少期から面倒を見てもらい、憧れを抱いた東高校に進学することは、父がいるいないにかかわらず決めていた。入学試験日の直前、ふと父が食事に誘ってくれた。道すがら「東高校に入ったら、一緒にホッケーやろうな」と口数の少ない父がぽつり。あまりの唐突な一言に、私は「うーん」と生返事しかできなかった。

 ◇     ◇

 苫小牧南、西、東の各高校で教諭としてアイスホッケー部を率い、数々の名選手の育成と競技普及、発展に力を注いできた田中正靖さん(63)が今年3月末で高校チームの指導者歴に区切りを付けた。スケートのまちの礎を築いた元苫東高名将の正さんが父の正靖さん。歩んだ人生行路をたどっていく。

 (構成・北畠授)

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