苫小牧バレーボール協会副会長 吉田 直志さん(65) 最大限の力を発揮させる 迫力のプレー間近で 審判の楽しさにとりこ

  • ひと百人物語, 特集
  • 2020年5月23日
半世紀近くの審判歴を誇る吉田さん
半世紀近くの審判歴を誇る吉田さん
男子ワールドカップバレー懇親会で苫小牧協会の役員らと壇上に立つ吉田さん(右から4人目)=1977年
男子ワールドカップバレー懇親会で苫小牧協会の役員らと壇上に立つ吉田さん(右から4人目)=1977年
市総体で開かれた全日本男子名選手会レセプションで、真鍋政義さん(左端)、植田辰哉さん(右端)、中垣内祐一さん(右から2人目)らと懇談。中央が吉田さん=1992年
市総体で開かれた全日本男子名選手会レセプションで、真鍋政義さん(左端)、植田辰哉さん(右端)、中垣内祐一さん(右から2人目)らと懇談。中央が吉田さん=1992年
苫小牧工業高時代の吉田さん(後列左端)=1970年代前半
苫小牧工業高時代の吉田さん(後列左端)=1970年代前半

  「おまえら、バレーボールやるぞ」。苫小牧バレーボール協会副会長の吉田直志さん(65)が光洋中2年生だった1968(昭和43)年の春、同競技に取り組んだ体育の授業中に教員から声を掛けられた。まだ9人制が採用されていたころ。とにかく突き指することが嫌で、それほど上手にプレーしていた覚えはないが、気付けば毎日のように放課後、同じくスカウトされたクラスメートたちと練習を重ねた。

   当時市内には男子チームが啓北、苫小牧東と合わせて3校しかなかった。猛特訓のかいあって、市内大会で好成績を挙げ胆振大会にも進出した。「勝負というより、仲間内で遊んでいる感覚だったけどね」。バレーボール競技との長い付き合いが始まるとは思ってもいなかった。

   家計を支えるためアルバイトをしながら通った苫小牧工業高の定時制でも男子バレーボール部に所属した。在学中の73(昭和48)年8月に苫小牧市総合体育館が誕生。落成記念の招待バレーボールに足を運び、2500人以上の観衆と共に72(同47)年ミュンヘン五輪バレーボール男子の金メダリスト木村憲治さん(松下電器)、同女子の銀メダリスト浜恵子さん(ヤシカ)らの華麗なプレーに魅了された。

   転機は苫小牧市消防に就職した74(昭和49)年の10月。異動先の勇払出張所に、国際バレーボール連盟の国際審判員資格を持つ秋田谷正和さんがいた。「ちょっとバレーでも見に来ないか」と誘いを受け向かった先は、当時道内屈指の強さを誇った苫小牧中央高校女子バレーボール部。同校体育館で、全国制覇の経験も持つ北海道女子教員チーム、道内大学ナンバーワンの旭川大女子を招き練習試合をしていた。

   男子選手にも劣らないスパイクの速さ、粘り強いレシーブ力に圧倒されたのもつかの間、吉田さんはホイッスルを持たされ審判を任された。突然のことに戸惑ったが、いざやると「ネットよりも高い審判台から試合を間近で見ることができる。楽しい」ととりこになった。

   秋田谷さんをはじめ、南米や中近東のナショナルチームコーチ歴任など国内外で競技発展に貢献した元苫小牧バレーボール協会副会長の故六郷隆義さんらに指導を受けながら、道内各地で審判活動に奔走した。

   「各チームの実力を最大限発揮させること。あ、この試合に審判いたんだと思われるくらいが一番いい」と理想を追い続けてきた。

   還暦をとうに過ぎた現在も、高さ1メートル50センチ近くある「審判台に上がれるうちは」とジャッジに精を出す。苫小牧バレーボール協会は今年、創立70年の節目を迎えた。地元の競技衰退は深刻化しているが、「年代の垣根を越えた交流をより促したい。審判員の担い手不足も、なんとか解消できれば」と力を込めた。

  (北畠授)

   吉田 直志(よしだ・なおし) 1954(昭和29)年、苫小牧市生まれ。5人きょうだいの末っ子で苫小牧工業高定時制を卒業後、苫小牧市消防へ就職。中学2年からバレーボールを志し、社会人になってからは主に競技審判として活動した。苫小牧バレーボール協会の事務局長や理事長など要職を歴任し、2011(平成23)年から副会長として競技の普及、発展に尽力する。苫小牧市川沿町在住。

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