◇15 昭和30年前後  家庭用燃料 王子社宅は石炭、町方はまき 土場の「皮むき」で家計助ける 風景今昔 見て覚えた昔の子どもたち お手伝いで生活の知恵養う

  • 昭和の街角風景, 特集
  • 2024年11月11日
馬車で運んでもらった丸太をリヤカーに積んだ大きな丸のこでまき屋さんに切ってもらう。危険な作業を子どもたちが遠巻きにして見ていた(昭和30年)
馬車で運んでもらった丸太をリヤカーに積んだ大きな丸のこでまき屋さんに切ってもらう。危険な作業を子どもたちが遠巻きにして見ていた(昭和30年)
物置に併設された石炭小屋で遊ぶ子どもたち。屋根の上の大人は煙突掃除をしているのか(年代不詳)
物置に併設された石炭小屋で遊ぶ子どもたち。屋根の上の大人は煙突掃除をしているのか(年代不詳)
かつては「皮むき」の人々でにぎわった王子の北土場の入り口
かつては「皮むき」の人々でにぎわった王子の北土場の入り口
王子の土場から線路を越えて「木の皮」を満載したリヤカーが続く(昭和30年)
王子の土場から線路を越えて「木の皮」を満載したリヤカーが続く(昭和30年)
秋が訪れるとストーブ市が開かれた(昭和31年)
秋が訪れるとストーブ市が開かれた(昭和31年)

  昭和31(1956)年4月、苫小牧市が市内全戸を対象に、前年度の燃料の消費調査をしたところ、石炭とまきを合わせて燃料としている世帯が一番多く、次に「まきだけ」、「石炭だけ」と続いた。この時代「石油」はまだ家庭用の燃料としては一般化されていない。石炭やまきに続いて「木の皮」というのがあった。誰もが、王子製紙の土場で丸太の皮を剥いだり拾ったりして持ち帰れる。「木の皮」は紙の街ならではの、無料の燃料であった。写真と統計数字で昭和30年ごろの苫小牧の燃料事情を見る。

   ■燃料調査の結果

   調査の結果をもう少し詳しく見よう。全市1万172戸が対象である。その各家庭が、年間どんな燃料をどのくらい消費しているかを調べた。

   当時の家庭にはどんな燃焼器具があっただろう。高齢の方はかつてを思い出し、そうでない方は想像してみよう。まずは台所と茶の間にストーブ。台所のものは点け消しがしやすいまきストーブ、茶の間のものは火力が安定して持続する石炭ストーブ。茶の間もまきストーブという家庭もあった。座敷があれば火鉢を置いた。大体そのような感じだ。

   そのような家庭1万172戸で1年間に消費されたのは石炭1万5107トン、まき5万7228敷、木炭2万1759俵、のこくず5200馬車、木の皮23万3447把、雑把木764馬車。このほかに電気こんろ695基、コークス24トン、ガス150立方メートルがあった。

   ■種類と組み合わせ

   単位が面白い。「トン」というのは分かる。「敷」というのはおよそ長さ60センチのまきを高さ1.5メートル、幅1.8メートルほどに積んだ量をいうが、大ざっぱなものである。「馬車」というのは、馬で引っ張る荷馬車のこと。1台に最大で1.5トンほど積むのが一般的だったようだ。

   これらの燃料をどのように使ったか。複数の種類を組み合わせる場合もあるわけで、苫小牧では「石炭とまき」を組み合わせて使用している家庭が31.25%、「まきだけ」が28.9%、「石炭だけ」が19.3%、「まきと木炭」が6.98%、「まきと木の皮」が5.69%、「木の皮だけ」が3.80%、「のこくずだけ」が1.96%。そのほか「雑把木だけ」「木炭だけ」という世帯もあった。

   ■王子社宅と町方の違い

   苫小牧で特徴的なのは「木の皮」が燃料として大きな割合を占めていること。誰でも王子製紙の土場で木の皮をはぎ、持って帰ることができたのだ。持って帰った木の皮は、天日に干して適当な大きさに割り、軒先などに積んでおく。樹脂(ヤニ)を含んでいるので火力がある。煙突内にすすがたまって掃除に手間がかかるが、無料の燃料は人々に大いに歓迎され、春から秋にかけて多くの人々がリヤカーを引いて、あるいは背に担いで、土場と自宅を往復した。

   年間23万把という量が、重量またはエネルギー換算でどのくらいなのかは不明だが、「まきと木の皮」「木の皮だけ」を合わせると1割近くの世帯が「木の皮」に頼っていた。このほかに「石炭と木の皮」という組み合わせもあったと考えられる。

   ただし、王子製紙社宅とそれ以外の家庭では消費する燃料の種類や量が大きく異なっていた。王子製紙社宅では石炭を燃料とする家庭が多く、石炭全体の45%に当たる6800トンを使用し、まきは全体のわずか6%しか使用していなかった。王子製紙は、従業員に暖房用石炭を毎年2トンほども支給していたから当然であろう。また、電気こんろ695基のうち558基が王子製紙社宅にあった。このことから、「木の皮」に頼る家庭のほとんどは社宅以外の町方の家庭であったらしい。

     (一耕社・新沼友啓)

  本欄上の写真。これはまき割りをしているところ。小さな子どもの後ろ姿が何ともかわいらしい。どんな作業も子どもにとっては興味津々。着ている服から寒い季節なのが分かる。セーターはお母さんの手編みだろう。この時代母親は自分のセーターや子どもの小さくなったセーターをほどいて編み直したり、穴が開いたら繕ったり継ぎを当てたりして着せていた。一枚の紙でも書くところが無くなるまで使う。どんなものでも使えなくなるまで大切にする。当時の人々の生活から、物を大切にするという価値観を感じ取ることができる。

   まき割りは子どもたちのお手伝いの一つだった。まきを燃えやすくするために手おので割る。まきの割り方やおのの使い方は、まきを割るお父さんやおじいちゃんの姿を見て、見よう見まねでやっていく。実際にやってみて経験していく。まき割りだけではなく、生活のさまざまな作業を大人の姿を見て覚える。こうして自然と日常にある知恵や技術を学んでいた。

   今はどうだろう。機械化が進み、生活が便利になり、ボタン一つで終了するものも多い。生活のすべとまではいわなくとも、子どもたちに何かを伝えられているのだろうか。

   当時はまきと一緒に王子製紙の土場から剥いできた「木の皮」も燃やしていた。かつて皮剥ぎ(皮拾い)をしていた工場北側の北土場へ行ってみたが、昔のように丸太が積まれている様子は分からなかった。この場所から木の皮を積んだ重いリヤカーを引き、さらに幾束かを背負って線路を渡り運んでいたという。昔の人々の頑張りには頭が下がる。

  (一耕社・斉藤彩加)

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