今年20周年を迎える社会人硬式野球クラブチーム「オール苫小牧」の監督を務める本野伸一さん(64)。輝かしい選手時代を過ごした猛将は「これからも『生涯現役』の気持ちで野球に打ち込んでいきたい」と意欲を語った。
苫小牧市出身。物心ついた頃からバットとボールに触れていた。その才能が開花し、啓北中学校では1年生から3年間、4番・サードを任された。
「4番・サード」は本野さんの代名詞に。駒大苫小牧高校、北海道産業短大(現道都大)でも、そのポジションを貫いた。持ち前の勝負強さを発揮し、チャンスで本塁打を放つなど、期待に応え続けた。
「ネクストバッターズサークルで思い描いた通りに、球が飛んでいった」と本野さん。「ずっと4番だったが、本当に自分に適しているのか疑問だった。ただ、選んでくれた分、結果で応えたかった」と当時を振り返った。
大学卒業後の1976(昭和51)年には、社会人チームの強豪、大昭和製紙北海道野球部に入部。主力選手として期待がかかっていたが、足のけがで3シーズンしかプレーできず、社会人野球の現役を23歳で終えた。「プロを目指していたが、甘くなかった」と回顧した。
けがから復帰した翌年からは、現在も監督を務めるサカイスポーツ野球部で軟式野球に転向した。チームの主砲でありながら主将も務め、朝野球の苫小牧民報杯で7回、商工会議所会頭杯では10回の優勝を経験。チーム在籍は40年以上を数える。
指導者としてのキャリアが現役より長くなった。大昭和製紙北海道野球部時代に、先輩から「お前は優し過ぎる」と言われたが、その優しさは本野さんの指導理念の源流だ。
「野球は一人ではできない。いかに相手の気持ちを考えられるかが重要」と本野さん。「ファーストへの送球やキャッチボールで受けやすいところに投げられるか。野球は細かいところまで相手の立場に立って想像する力を養う機会でもある」と語る。
97年には中学硬式野球チームの苫小牧クラブ(現苫小牧ボーイズ)の発足に関わり、コーチや監督を務めた。「野球は人間形成の場でもある。技術だけでなく、精神的な部分での指導に重点を置いてやってきた」と言う。
2015年には、オール苫小牧の監督に就任。07年以来の全日本クラブ選手権出場を目標にチームのかじ取りを任されている。本野さんは「指示待ちではなく、練習メニューを選手たちに考えさせることを大事にしている。今では選手間の話し合いやミーティングが活発になっている」と指導方針を語った。
チームは再建の途上にある。本野さんは「現状でやれる限りのことを尽くして、全日本出場に近づけたい。引退はまだ考えていないが、無責任なことはしたくない。後進を育て上げることが責務だ」と力を込めた。
(石井翔太)
本野 伸一(もとの・しんいち) 1955年4月生まれ、苫小牧市出身。駒大苫小牧高校、北海道産業短大を経て大昭和製紙北海道野球部入り。社会人野球引退後、苫小牧埠頭クラブ野球部の監督を務めたこともある。軟式のサカイスポーツ野球部と硬式のオール苫小牧、双方の監督として采配を振る。