苫小牧体操連盟会長 沖田 秀児さん (70) 競技のともしび 消さない 半世紀の 指導人生

  • ひと百人物語, 特集
  • 2019年12月21日
1979年の全道中学大会で男子個人総合優勝を飾った教え子の載った本紙記事を持つ沖田さん
1979年の全道中学大会で男子個人総合優勝を飾った教え子の載った本紙記事を持つ沖田さん
79年全道中学大会(小樽市総合体育館)に出場した教え子たちと沖田さん(後列右端)
79年全道中学大会(小樽市総合体育館)に出場した教え子たちと沖田さん(後列右端)
苫小牧体操連盟の関係者らと懇親会(沖田さんは前列中央)=1990年
苫小牧体操連盟の関係者らと懇親会(沖田さんは前列中央)=1990年
小中学時代は野球に夢中だった=1961年
小中学時代は野球に夢中だった=1961年

  跳ぶ、回る、ひねる、支持する―。人体の無限の可能性を感じさせてくれる体操競技が大好きだ。だからこそ、半世紀に到達しようとしている競技指導人生では、教え子たちにいつも同じことを伝える。「楽しく続けること。それが一番だ」と。

   小中学生のころは「巨人、大鵬、卵焼き」の真っただ中。長嶋茂雄らプロ野球選手に憧れ、町内の少年野球チームはもちろん、クラスメートに呼び掛け独自のチームを結成するなど毎日白球を追い掛けた。身長は150センチ後半と小柄だったが、「自分で言うのもなんだけど、守備はうまかったよ」とはにかむ。

   「将来はプロ野球選手に」と大志を抱き高校生になったが、身長170センチ以上の体格に恵まれたプレーヤーが当たり前だった野球部員を見て、「自分は通用しない」と失意のうちに夢を諦めた。そこに飛び込んできたのが、体育館で他部活の間に挟まれながらほそぼそと活動していた体操部だった。

   60~70年代にかけ、男子団体総合で五輪、世界選手権合わせて10連勝を果たすなど日本の「お家芸」とうたわれた競技。特段の関心はなかったが、「新しい技を覚えたときの喜びが忘れられなかった」と一気に競技のとりこになった。ただ、体操指導のできる顧問は3年間不在。市内の競技経験者を訪ねアドバイスを受けたほか、選手間でメニュー作りをしてきた。ふびんな思いを後輩たちにはさせたくない。「自分が教員になって、体操を教える」。人生のターニングポイントだった。

   国士舘大に進学。高校時代に県大会優勝、インターハイなどに出場経験を持つ精鋭200人以上が集う体操部に在籍した。部内はもちろん、各種大会に行けば跳馬の「カサマツ跳び」を編み出したミュンヘン五輪金メダリスト笠松茂(中京大)、8個の五輪金メダルを持つ加藤沢男(東京教育大‖現筑波大)らが目の前で演技を披露する。教本を読み込まずとも、指導のヒントはいつも身近にあった。

   初任地となった苫小牧開成中で、体操部を創設した。生徒たちと「一緒になって跳んだり跳ねたり、とにかく夢中だった」。3年目で早くも男子個人戦で北海道大会覇者を輩出し、滋賀県開催だった全国大会にも足を運んだ。

   続く東中、和光中でも体操部をつくり奮闘。79年冬には、地元苫小牧で開催された北海道ジュニア大会男子Aクラスの1位から3位を教え子が独占する金字塔も打ち立てた。しかし、小学生から体操を専門的に指導するクラブチームが台頭。「学校体育の限界」と80年に苫小牧体操連盟主導の苫小牧ジュニア体操クラブを創設し、より幅広い年代が競技に親しむことのできる環境を整えた。

   クラブの選手数は毎年40~50人と安定して推移するが、自身も尽力した学校単位の体操部は13年前に市内から消滅。少子化に加えスポーツの多様化という、どの競技も頭を悩ます社会的現象の中で、高校時代の後輩、岡林雅祥、岩村伴子、西村信子のほか、澤井智苫小牧ジュニア代表、小堀由貴コーチら、若く実績のある指導者も力を貸してくれている。「苫小牧の体操のともしびは消さない」と心に固く誓う。

  (北畠授)

   沖田 秀児(おきた・しゅうじ) 1949年、室蘭市生まれ。5歳のときに父親の転勤で苫小牧に移住した。苫小牧西高校時代から親しんできた体操の魅力に引かれ、教員時代は主に体操部の指導者として奮闘。2010年から苫小牧体操連盟の会長、16年からは道体操連盟の副会長にも就任した。10年に苫小牧体育協会スポーツ功労賞、11年に道体連の功労賞をそれぞれ受賞している。苫小牧市大成町在住。

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