スキューバダイビングのインストラクター 辻 冨雄さん (75) 安全第一 無事故が誇り 指導歴40年以上

  • ひと百人物語, 特集
  • 2019年11月23日
ダイバーの世界的な教育機関「PADI」からの表彰状を手にする辻さん
ダイバーの世界的な教育機関「PADI」からの表彰状を手にする辻さん
海中撮影で今も愛用しているカメラを手にする、辻さん=1974年、後志管内積丹町
海中撮影で今も愛用しているカメラを手にする、辻さん=1974年、後志管内積丹町
流氷下のダイビング風景を辻さんが撮影した一枚。水温は氷点下2度、水深6メートル=1973年、根室管内羅臼町
流氷下のダイビング風景を辻さんが撮影した一枚。水温は氷点下2度、水深6メートル=1973年、根室管内羅臼町
ダイバー仲間たちと記念撮影する辻さん(前列右から2人目)=1983年、積丹町の島武意海中公園
ダイバー仲間たちと記念撮影する辻さん(前列右から2人目)=1983年、積丹町の島武意海中公園

  スキューバダイビングのインストラクターを40年以上務めてきた苫小牧市明徳町の辻冨雄さん(75)。日本のスキューバダイビングの黎明(れいめい)期からの愛好者で、これまでに教えたダイバーは約230人に達する。長年の指導の実績なども評価され、スキューバダイビングの世界的な教育機関PADIから表彰を受けた。「安全第一を大切にし、事故を起こしていないのが誇り」と語る辻さん。今も現役で海に潜り、魅力に浸っている。

   出身地は渡島管内旧椴法華村(現・函館市)。漁村で海は身近な遊び場だった。しかし、スキューバダイビングとの出合いは、苫小牧市内の建設会社に就職し、社会人になっていた20代の頃。札幌市内の書店で偶然、手に取った「水中レクリエーション」という本を読んで、関心を持ったという。特に表紙の写真に写っていた水中の岩場の間で器材を付けて遊泳する姿にくぎ付けとなり、「こんな世界を、自分も見てみたい」との衝動に駆られた。

   1970年代は、日本のスキューバダイビングの黎明期。道内にまだ教室もないような状況だったが、辻さんは海好きの親友と一緒にダイビング用の器材をそろえ、積丹半島の海岸で初ダイビングに挑んだ。この日は青空が広がり、波も立っておらず、「海に入る前から透明度の良さが分かるほどだった」と振り返る。期待と恐怖を抱えつつ、親友と共に見よう見まねで苦戦しながら、徐々に要領をつかみ、海の美しさに魅了されていった。

   辻さんは、休日などを利用し、プロの潜水指導員を養成する教育機関PADIのインストラクター試験を受け、76(昭和51)年に道内4人目のインストラクター資格も取得した。

   さらに、ダイバー人口を増やそうと、当時で約50万円はした水中撮影用カメラ一式も購入し、水中撮影も積極的に試みた。流氷を海中から撮影した際、その珍しさからテレビ取材も受けた。流氷撮影はベテランのダイバー仲間と検討を重ね、密着性の高いスーツを特注し、ワセリンを塗って肌を守るなど準備を徹底。「大きな氷塊がぎっしり詰まった光景は素晴らしく、太陽の光が氷に反射し、水中は明るかった」と語る。

   PADIから今年7月、インストラクター歴40年を記念した表彰状が自宅に届いた。PADIアジア・パシフィック・ジャパンによると、インストラクターの40年表彰者は日本人では数人にとどまる状況で、辻さんも身が引き締まる思いを明かす。

   今も腕立て伏せ200回、腹筋、背筋を各400回、ウオーキングを日課に体力づくりに励み、年数回は積丹半島に出掛け、仲間の指導も兼ねてダイビングを楽しむ。「自然が相手だから絶対に無理をしない。事前準備にも時間をかける。的確な判断が常に問われる」と安全第一を基本に掲げ、「海は怖いところもあるが、本当に魅力的な場所」と笑顔を見せた。

  (河村俊之)

   辻 冨雄(つじ・とみお) 1943(昭和18)年12月28日生まれ。今金高校(現・檜山北高校)卒業後、国の産業開発青年隊で機械技術を習得し、岩倉組土建(現・岩倉建設)に入社。苫小牧港の掘り込み工事にも携わった。2003(平成15)年に同社を退社。現在、スプリングタウン町内会会長なども務める。苫小牧市明徳町在住。

過去30日間の紙面が閲覧可能です。