闘将・佐藤茂富氏を悼む(2)―恩師のスタイル受け継ぐ 石狩南高野球部監督・高草木穣氏

  • スポーツ, 野球
  • 2019年10月30日
砂川北を継いだ高草木氏

  現役時代は怖くて、厳しい指導者とばかり思っていた。大学卒業後1年間、母校砂川北高のコーチとして携わることになった高草木穣氏(52)。「ゆたか(穣)、あいつの様子を見ておけ。顔色がおかしい」。恩師の佐藤茂富監督(当時)は、部員一人一人の性格、家庭環境、学内態度などすべてを把握した。ときに叱るのをやめ、生徒が悩みを隠そうと気丈に振る舞うと、だまされたふりもした。生徒と教員の間柄では分かり得なかった、繊細な一面を知った瞬間だった。

   1979年夏の北北海道大会で砂川北が準優勝した。「こんな強い学校が近くにあるんだ」。隣町の歌志内市に住んでいた当時小学6年生の高草木氏は胸を躍らせた。数年後に進学し、佐藤監督の存在を知ることになる。「とにかく迫力があった」と回顧する。

   古風なイメージとは裏腹に、日々の練習は最先端をいっていた。宇宙飛行士が取り入れていたという、滑車によって負荷が掛かったひもを引っ張る「アポロトレ」と呼ばれる練習をはじめ、スクワット、ベンチプレスといったウエートメニューも豊富だった。ただ体をいじめ抜くだけではなく、体をつくるために白米を中心とした食事にも力を入れていた。

   厳しい一方で人柄はお茶目な面もあった。高校1年の冬、「甲子園の心を求めて」の著者佐藤道輔氏が来校した。「この本読んだことあるか」と佐藤監督の問いに、唯一人「ある」と答えたのは高草木氏。あらすじを説明すると、「きょうからレギュラーだ」と言われたことは今でも覚えている。

   佐藤監督の背中を見て、同じ教員の道を選んだ。96年から砂川北の教員となり、恩師の後任として野球部の指揮を執った。もちろん重圧はあった。でも「佐藤先生のスタイルは変えない」と意志を懸命に継いだ。

   「まずグラウンドに行け。仕事は練習が終わってから」「すぐに物事が分かるのはいい生徒。言ったことが5年、10年たって分かれば、それはいい教育だ」。教えは今も心に染み付いている。

   誰もが認める佐藤監督の後継者として、11月2日に同氏のお別れ会を札幌市内で企画した。「佐藤先生はこんなにすごかったんだなと思ってもらえたら、うれしい」。多くの弔問を願っている。

 ―高草木穣

  1967(昭和42)年、歌志内市生まれ。佐藤茂富監督率いる砂川北高から日本体育大に進学した。卒業後1年間、滝川高で時間講師を務めた際に母校砂北のコーチとして携わる。5年間の羽幌高赴任を経て96年から母校の教員となり、恩師の後を継いで砂北野球部の指揮官となった。現在は石狩南高教員で野球部監督。

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