1926年12月25日に生まれた星川元昭さん(92)。名前は、その年が昭和元年だったことに由来する。人生の大半を教育現場で過ごしてきた。目を細め、「今でも懐かしいのは子供たちのことばかり。天気の良い日は裏山に出て、一緒に歌を歌い、将来のことを自由に語り合ったものだ」と朗らかな笑顔を見せる。
門別村(現日高町)厚賀の教員の三男として生まれた。仕事柄、転勤の多かった父。少年時代は平取、えりも、様似と引っ越し続きだった。
父と同じ教員を目指し、42年に北海道旭川師範学校(現北海道教育大学旭川校)に入学すると世相は目まぐるしく変転。翌年に学校が官立(国立)に移管し、男子校の北海道第三師範学校に変更。学制も5年制から予科3年と本科2年の専門学校になった。44年8月には学徒勤労令の公布により、学校報国隊が組織され、勤労動員が始まった。
級友20人と共に空知管内北村(現岩見沢市)では人力による稲刈りと脱穀作業、上川管内音威子府村咲来(さっくる)ではデンプン工場でジャガイモと向き合う日々が続いた。
45年に入ると七つ上の兄、五つ上の兄2人が千島、フィリピン沖で戦死したという報が届いた。「いつか自分も死ぬかもしれない。しかし父を残して死ぬわけにはいかない」と働き抜くことを誓った。
その夏、人づてに終戦を知ると力が抜けていく気がして働く意欲を失いかけた。しかし、「翌日の朝早くから農作業に出掛ける農家の姿を見て、あすを乗り切る勇気と生きていく力を分けてもらった気持ちになった」。
47年に師範学校を卒業。赴任したのは小学校併設の様似町の様似中学校だった。かつて自分を「星川」と呼び捨てにして勇ましいことを言っていた町の大人たちは、すっかり小さくなって「星川さん」と”さん”付けで、敬語を使うようになっていた。
「敬語を使われたこっちも戸惑うばかりだった」と振り返る。教科書はなく、子供たちと野山に出て楽しく過ごしたのは、このときからだった。
同中の3、5、6期生とは現在でも交流があり、90歳まで札幌開催のクラス会に呼ばれるほどだった。
54年に赴任した苫小牧西小学校では1クラス約50人の生徒を受け持った。子供たちと一緒に体を動かすことが何よりも楽しかった。その後は65年伊達小、70年に同小で教頭となり、74年苫小牧錦岡小、79年えりも笛舞小で校長。84年の苫小牧澄川小で退職し、87年、市内花園町の苫小牧市立幼稚園で3年間園長を務めた。「これまで中学生や高学年を教えてきたから幼児教育は悩みの尽きない日々だった。それでも教員や親の思いの熱さを受けて乗り切ったのを思い出す」と笑う。
「努力をたたえ合う人間性と情感の豊かさを持った人になってほしいと願ってきた」現場を離れても子供たちへの愛は変わらない。
(半沢孝平)
星川 元昭(ほしかわ・もとあき) 1926年12月25日、門別村(現日高町)厚賀生まれ。47年北海道第三師範学校(現・道教育大)卒。ゴルフやテニス、スケートなどスポーツは90歳までに引退したが、父も愛した囲碁は現在も続けている。苫小牧市ときわ町在住。