アイヌ文化伝承者 長谷川 繁美さん (81) 民族の世界観 営みを後世に

  • ひと百人物語, 特集
  • 2019年9月21日
旧アイヌ民族博物館で来館者に口琴ムックリ作りを指導する長谷川繁美さん(左から2人目)=2009年
旧アイヌ民族博物館で来館者に口琴ムックリ作りを指導する長谷川繁美さん(左から2人目)=2009年
ポロトの森で白老東高生徒にアイヌ文化を伝える長谷川さん=17日
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長谷川さんが大事にしている曽祖父サリキテの写真。白老コタンの村長を務めた
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新婚旅行先の登別温泉地獄谷で妻和子さん(当時28歳)と記念撮影=1967年
新婚旅行先の登別温泉地獄谷で妻和子さん(当時28歳)と記念撮影=1967年

  秋晴れとなった今月17日、白老町のポロトの森。アイヌ文化体験の授業で地元白老東高校の生徒がクチャ作りに挑んだ。クチャはヤナギの幹などで骨組みし、フキの葉で屋根をふいた簡素な仮小屋。森へ狩りに出たアイヌ民族の男たちが野営の際に利用したとされる。指導に当たった長谷川繁美さん(81)は作業を手伝いながら、自然と共に生きたアイヌ民族の精神が生徒らに伝わることを願った。

   日本が戦争時代に突き進んだ1938(昭和13)年、白老コタンと呼ばれた現在の白老町浜町で7人きょうだいの次男として生を受けた。父初蔵さんは道南出身の和人、母ウタ子さん(旧姓森)は代々白老のコタン(村)で暮らしたアイヌ民族の家系。母方の本家筋は江戸期に生まれたリキナマ、リキシノ、サリキテ、明治生まれでウタ子さんの父佐吉と続き、長谷川さんの曽祖父サリキテは白老コタンのコタンコロクル(村長)を務めた人物だ。儀礼用のヒグマを飼い、北海道行幸で白老に立ち寄った明治天皇に披露するイオマンテ(クマ送り)のため子グマを差し出したこともある。

   長谷川さんは幼い頃、アイヌ民族の血を引く身であることを知らずに育った。「母はアイヌ文化を子どもたちに教えようとしなかったから」。だが、ひょんなことで知る。小学生の時、自宅にあった刀でチャンバラごっこをしていたら、相手の友だちがけがをした。母は烈火のごとく怒った。「その刀はわが家の大切なアイヌ民族の宝物。粗末に扱うんじゃない」。長谷川さんは驚いた。「俺はアイヌなのか」と。母は続けて言った。「シャモ(和人)に負けずに頑張りなさい」

   終戦間際、家の近くに米軍艦載機から機関銃の弾が撃ち込まれ、怖い思いをした戦争がようやく終わり、中学卒業後、空知管内長沼町の農家へ働きに出た。戦後の貧しい時代が続き、家計を助けるためだった。「シャモに負けるな」。母の教えを胸に3年間必死に働き、白老に戻ってからは漁の手伝いをした。

   それから数年後、地元採石会社で事務仕事に携わり、さらに大手建設企業に勤務。結婚した翌年の30歳の時に建築会社を興し、60歳で退いた。従業員の生活や家族を守るため、働きづめの人生だった。

   リタイアして間もなく、幼い頃に見たある場面がふとよみがえった。近所の女性との井戸端会議で不思議な言葉を口にしていた母の姿だ。「思い返せば、それはアイヌ語。子どもの前では使わないようにしていたが、仲間とのおしゃべりでつい口に出たのでしょうね」。明治以降の同化政策で、親から子へ連綿と紡いできた営みを捨てざるを得なかったアイヌ民族。今を生きようとした母の覚悟とつらさが分かったような気がした。

   長谷川さんは突き動かされるように書物を読みあさり、ポロト湖畔の旧アイヌ民族博物館で学び、伝統文化の知識と技を懸命に習得。先住民族の祖先から続く血筋、出自も強く意識するようになった。長く文化伝承のボランティアに携わり、今も依頼を受けては指導に努めている。

   平和を愛し、自然や生き物など身の回りの全てを敬ったアイヌ民族の世界観。第二の人生は、それを伝える活動にささげ「今が人生で最も充実しています」と言う。

  (下川原毅)

   長谷川 繁美(はせがわ・しげみ) 1938(昭和13)年9月、白老村(現白老町)生まれ。白老中学校卒。一般社団法人白老モシリのイオル体験交流事業で、伝統技術などアイヌ文化伝承の指導に当たっている。白老町大町在住。

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