胆振東部地震で道路の至る所が寸断する中、自衛隊は幅広い内容の物資輸送を展開した。例えば、国が被災地に必要な物資を送る「プッシュ型支援」では、空輸の拠点を航空自衛隊千歳基地が担い、陸自が大型車両で物資集積拠点の苫小牧港・西港に運び、被災した厚真、安平、むかわ町などに届けた。食料や毛布、乾電池など物資の受け渡しなどに総力を挙げる中、第7師団はさらに各町で兵たん能力を発揮し、被災者の生活が少しでも楽になるよう取り組んだ。
第7高射特科連隊は厚真町内で食事の搬送を担った。第7後方支援連隊が総合福祉センター横で調理した食事を町内各所に届ける役割。道路の寸断で移動が困難な被災者に配慮した。2人一組の4個班が中型トラックで食事を運び、有澤2曹はスポーツセンター、鹿沼マナビィハウスの2カ所を担当した。
300食程度のご飯、汁物、おかずをクーラーボックスのような配食容器に移し、スポーツセンター、鹿沼の順で1日3回、食事を届け、空き容器を回収した。スポーツセンターは福祉センター近場で「特に問題はなかった」が、鹿沼は最短距離で結ぶ道道千歳鵡川線が通行止めで、上厚真方面からの遠回りを余儀なくされた。
道路はあちこちに亀裂や段差がある悪路。ご飯や汁物などをなるべく温かいまま届けるため、できる限り急ぎながらも「食事を積んでいるので、こぼれないよう、運転に細心の注意をした」。福祉センター周辺は報道などの車でごった返し、決して広いとは言えない町道などの運転に神経をすり減らした。
それでも食事を届けるたびに心掛けたのは、町民とのコミュニケーション。被災者の心を少しでも和らげようと、声を普段よりも高めに出すよう意識した。「おはようございます、朝食持ってきました」などと元気にあいさつを重ねた。「(町民は)最初は元気がないように感じた。表情だったり、会話だったり。日がたつにつれて笑顔が見られた」と振り返る。
町民のニーズ聴取も心掛けた。「こちらから『体調大丈夫ですか』と声掛けし、『何かがほしい』とかニーズがあれば本部に伝えた」。おむつやトイレットペーパー、ウエットティッシュ、綿棒など、日常生活の必需品も食事のついでに届けた。町民もメモ書きなどで気軽に要望を寄せ、「自衛隊への信頼」をひしひしと感じた。
初心は進路決定を前にテレビで見た、1995年の阪神・淡路大震災における自衛隊の災害派遣活動。「自衛隊はかっこいいなあ」と憧れを抱いた。2011年の東日本大震災でも、多目的支援隊の一員として各所で物資を輸送した。「震災はない方がいい」と強調しつつ、「憧れていた仕事」で経験を重ねてきた。厚真でも「早く復興してくれれば。本当にそれだけ」の思いで活動した。熱い思いを物資と共に届けた。