ソ連軍による監禁や集団自決、妹の死、発疹チフスへの感染―。満州・敦化(現・中国吉林省)で終戦を迎え、引き揚げまでの1年余りで壮絶な経験をした。心に負った傷は深く、この時のことを人に伝えられるようになるまで50年の年月を要した。
「何度も死にかけたのに助かったのは、戦争経験を伝えるという使命を与えられたためかもしれない」。言葉も残せないままに戦争で命を奪われた人たちの無念を背負い、声ある限り語り続ける考えだ。
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釧路市で生まれ、4歳の時に家族で満州の奉天(現・中国瀋陽市)に移住した。その後、妹と一緒に敦化の叔母の家に疎開。1945年8月15日、7歳で終戦を迎えた。
その後もソ連軍は満州侵攻を止めず、同19日には敦化に進軍。身を寄せていた日満パルプ製造の社宅群が占領された。男性は連行され、子どもや女性は同社の独身寮に監禁された。寮内で繰り返される略奪や性的暴行に絶望した女性たちは集団自決を決断。子どもの自分に拒む力はなく、言われるがままに渡された青酸カリを口に入れた。
もだえ苦しみ、気を失ったが、叔母の介抱で一命を取り留めた。しかし、3歳の妹は助からなかった。隣の部屋では、首や手首をかみそりで切って絶命した女性たちが何人も倒れていた。「戦争は人を狂わせる」。凄惨(せいさん)な光景と共に、戦争の恐ろしさが心に刻まれた。
過酷な状況はその後も続き、収容所で発疹チフスに感染し半年間、病床に伏して生死の境をさまよった。日本への引き揚げが決まり、船が出る葫蘆島(ころとう)市に向かう道中も苦難の連続だった。現地の中国人らの襲撃を避けるため、移動は夜間に行った。気が付くと、大きな川を渡るたびに幼い子どもの姿が消えていた。「連れていけないと悟った親が、子どもを置いていったのだろう」。この世の地獄そのものだった。
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引き揚げ後に母と再会。自らも苫小牧市で家庭を築いて3人の子どもに恵まれたが、戦争の恐怖は常に付きまとった。思い出すのが怖いため、戦争経験を人に話すことを避けてきた。
しかし、同じ時代を生きた人が減っていくことに危機を感じ、戦争経験を伝えることを決意。54歳の時、戦争体験集を作る市内の平和団体に手記を投稿した。それ以降、機会があるたびに、平和を願う催しなどで戦争の愚かさや恐ろしさを語ってきた。昨年12月には市内の中学校で講話を行った。真剣に耳を傾ける生徒たちの姿に「平和の大切さを少しでも実感してもらえたのでは」と手応えを感じた。
「私に残された時間はそう長くはない。どこにでも出向き、1人でも多くの人に戦争経験を伝えたい」。戦禍を生き抜いた者に課せられた使命を果たすことへの意欲に燃える。
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戦後80年を迎え、惨禍の記憶が薄れつつある中、地域で平和の尊さを伝える人たちを紹介する。全5回。