「なぜ罪のない人同士が殺し合いをしなければならないのか」。市民団体「ぴーすぷろじぇくと苫小牧」の共同代表として講演やコンサートなどを通じ、地域で戦争の悲惨さを伝えてきた。
1946年12月、横浜市生まれ。戦後の日本は造船業が盛んで「近所に住んでいたお金持ちの船乗りに憧れた」。21歳で3等航海士になり、日本と海外を往復。50カ国以上を訪れ、異国の文化や歴史に肌で感じてきた。
20代前半のある日、仕事で滞在中の米国で街を散策していると通りすがりのドライバーに「恥を知れ!」と暴言を浴びせられ、フィリピンでは「日本人だ!」と憎しみの目で投石された。その時は「なぜ自分が?」と戸惑ったが「戦争で大切な人を殺され、相手国の国民を恨みたくなるのも当然。戦争の爪痕がまだ残っていた」と振り返る。
◇ ◇
転機は1996年、ベトナムで訪れた。長期休暇中にベトナム戦争で米軍が散布した枯れ葉剤や地雷などの被害者を支援するボランティアに加わり、結合双生児として生まれ、世間を揺るがした「ベトちゃんドクちゃん兄弟」のドクちゃんに出会った。分離手術の影響で、植物状態となったベトちゃんの分まで懸命に生きようとするドクちゃんの姿にショックと感動を覚えた。「二度と同じ境遇の子どもを生み出してはならない」と、本格的に平和活動に取り組むことを決意するきっかけとなった。
退職後の2006年、苫小牧でぴーすぷろじぇくと主催の「イラク戦争写真展」開催を手伝った際、思いを同じくする同団体の石塚茂子代表と出会い「経験を生かせる」と確信。入会後は地域の子どもたちに苫小牧空襲の紙芝居を披露したり、東日本大震災の被災地に義援金を寄贈したり、悲惨な出来事から目をそらさないことの大切さを訴えてきた。
活動を続ける中、アフガニスタンで人道支援に当たる福岡市のNGO「ペシャワール会」の代表中村哲さんにも出会った。同い年で行動力があり、心から尊敬していたが19年12月、アフガニスタンで武装集団に襲撃され、命を落とした。「戦争は人を狂わせる恐ろしいもの」だと改めて実感した。
◇ ◇
戦争の記憶を風化させまいという思いは、年を追うごとに強まる。苫小牧市が道内自治体で唯一制定する「非核平和都市条例」を誇りに思う。仲間たちとの地道な働き掛けで、26年3月に開業予定の市民文化ホールに条例の象徴として「平和の鐘」が設置されることが決まっている。「全市民が『非核のまち』と認識することで、平和のバトンが受け継がれる」と力を込める。
日本は戦後80年、海外侵略をせず、平和を維持してきたが世界では戦争や紛争が絶えない。「平和を分かち合うのに必要なのは武力ではなく対話。その認識を持ったら罪のない人同士の殺し合いは必ずなくなる」
今夏は世界平和を祈る恒例の「イマジンコンサート」や講演会などを通じ、平和の鐘に込められた願いを伝える活動に注力する。いつか、戦争を知らない子どもたちが「海や空は遠い軍国まで続いている」ことを肌で感じられるようなフィールドワークにも取り組みたいと思っている。
(終わり)二度と戦争を起こさない―。その一心で、平和の尊さを訴え続ける榎戸さん