札幌市で終戦を迎えました。明治生まれの頑固で厳格な父は、逓信病院(現・NTT病院)の勤務医。両親と次女の私を含むきょうだい5人、祖母、曽祖母の9人家族でした。
終戦の年は13歳で旧制女学校の2年生。授業はほとんどなく援農(畑仕事)や工場での包装作業に明け暮れ、毎日くたくたでした。
曇り空を横切る米軍機のごう音がまちに鳴り響いたのは、そんな夏のある日。自宅裏に2畳分の防空壕を作っていましたが「爆弾を落とされるのでは」とひやひやし、北に向かって音が消えた時は、ほっと胸をなで下ろしました。
8月15日は「大事なラジオ放送がある」と聞いて、母や近所の人らと空き地に集まりました。天皇陛下の声を耳にしたのは初めてです。隣に立つ母は直立不動でそっと見上げると、まばたき一つせず唇は震えていました。帰り道「そうなのか。日本は負けたのか」と、頭の中で繰り返し今後の日本を憂いながら歩いたことが忘れられません。その後、大学教授だった叔父が着の身着のまま、引き揚げ船に乗りぼろぼろの姿で帰還したことも印象に残っています。
戦後、社会は「万世一系の神国日本をたたえる」から「民主主義礼賛」に180度転換。やるせなさを感じ、何より戦中戦後の飢餓体験が忘れられません。飽食の現代はとても幸せなのだと、つくづく感じています。