終戦を迎えた場所は旧椴法華村(函館市椴法華地区)で、5歳の頃。その年は函館空襲があり、恵山灯台が破壊焼失しました。父は国民学校の校長で夏休み、(オホーツク管内)美幌町の農家まで食糧を得るため、母と農作業の手伝いに出ていて不在でした。
椴法華村は米軍艦載機の爆撃に遭い、焼夷弾で学校が焼けました。祖父母と兄、姉2人ずつの計7人で学校敷地内の物置に一時避難したのですが、自宅に戻る際に私だけ取り残されたのを覚えています。祖父母らは自宅で1人足りないことに気づき、後から迎えに来たそうです。
台地にあった村役場も機銃掃射を受け、村長宅も被害に遭い、娘さんが亡くなったと聞いています。当時「そうだ、そうだ、そうだ村の村長さんが亡くなった」というはやし歌を子どもたちが口ずさんでいましたが、後々その事実を少しぼかして伝える歌だったと知りました。
終戦の翌年、小学校に入学。焼け残った校舎で授業を受けましたが、鍋や釜など供出用の鉄器類が無数に積み上げられ、グラウンドの隅には深さ50センチほどの子ども用の待避穴が残っていました。
自宅の部屋に父の「今日は何の日」という(タイトルの)その日の出来事が書かれた厚い本があったのですが、小学3年生ぐらいの時、何気なく開くと12月11日のページ辺りに銃弾が突き抜けた痕跡を見つけ、衝撃を受けました。教員住宅も被弾して壁のどこかにも穴が開いていたかもしれません。
戦後も食べ物がなく発疹チフスで亡くなる子どもが多かった。食べ物が豊富で、逃げ惑うことなく暮らせる今の日本はとても幸せだと思います。