利尻島鬼脇(現・利尻富士町鬼脇)で生まれ育ちました。5人きょうだいの2女。隣町の清川地区に兵舎があり、わたしたち子どもは慰問でダンスなどを披露していました。銀行員だった父は出征しませんでした。
終戦の日は9歳でした。島には無かった雑穀やでんぷんを求めて母と姉、妹、当時1歳の弟と一緒に、食糧営団だった浜頓別の叔父の家を訪ねました。
船で母の兄妹がいる稚内にも立ち寄りながらの10日間ほどの旅。食糧を求める人たちでぎゅうぎゅう詰めの列車で移動したことも鮮明に覚えています。
叔父の家にはラジオの玉音放送を聴くため、食糧営団の職員たちが集まっていました。敗戦によって大人が泣く姿はとても印象的で、昼間なのに夕方のような寂しさを感じました。
でも最も悲しかったのは利尻島に戻って10日ほどして、弟がたちが悪い紫はしかにかかって亡くなったことです。戦争さえなければ、かわいい弟を亡くすことはなかったと長い年月を経ても、なお考えてしまいます。
戦後は中学まで島で暮らしました。直接的な戦火の記憶こそありませんが「ロシアが攻めてくる」との風評もあり、とても怖かったです。派手な服装は控えていました。
今では考えられないような厳しい時代を過ごしました。食糧も物資も入手できず、男子も編み物や繕い物をして、衣類などを大切に扱っていたことを思い出します。この幸せな時代をかみしめています。