◇5 昭和31年 遠足 坊主山、緑ケ丘へ向かう大行列 「遠足のおやつ」論議を真剣に 風景今昔 山頂からの景色は激変

  • 昭和の街角風景, 特集
  • 2024年6月10日
きょうは遠足。登校前の子どもたち(昭和31年頃、苫小牧西小学校)
きょうは遠足。登校前の子どもたち(昭和31年頃、苫小牧西小学校)
苫小牧東小学校の遠足(昭和39年)
苫小牧東小学校の遠足(昭和39年)
小学校の遠足の目的地となった坊主山(王子山)からの風景(昭和30年前後)
小学校の遠足の目的地となった坊主山(王子山)からの風景(昭和30年前後)
現在の坊主山(王子山)からの風景
現在の坊主山(王子山)からの風景

  「遠足」という学校行事は、いつの時代から始まったのだろう。明治33(1900)年の文部省通達に「兵式教練」の一環として水泳などとともに遠足を教育の中に取り入れるようにとの指示があったというから、多分それ以前から何かの形で遠足らしきものがあったに違いない。体を鍛える、集団行動に慣れる、社会見学、そして戦後は、決められた額でおやつを買う体験も遠足を通じての勉強だとされた。ところが昭和31(1956)年、苫小牧市内の小学校でこの遠足のおやつを巡って学校、父母、教育委員会を巻き込んだ騒動が起こった。以下はその顛末(てんまつ)。

   ■遠足シーズン、トップは西小

   5月ともなれば、遠足のシーズンだ。新入学の1年生、クラス替えを済ませた他の学年の子どもたちが、新しい担任の先生や友達と一緒に初めて行う一大イベントが遠足だった。

   5月2日、苫小牧市内の小学校のトップを切って、西小学校の遠足が行われた。この年、西小学校の全校児童数は約2500人。ベビーブームの子どもたちが就学年齢を迎えたので特に1年生が多い。ちなみに言えばこの年、苫小牧市街地には西小のほか、古くからの東小学校と開校して間もない若草小学校があり、児童数はそれぞれ約1800人、約2000人であった。

   西小学校では「2日午前8時半、校庭に集まった2000人を超える児童たちがお弁当を下げて、学年ごとにそれぞれ目的地へ向けて出発した。1年生(600人)は2班に分かれて坊主山と(隣の)スキー場まで初めての遠足をした。2列に並んだ1年生は先生のいうことをよく守り、喜びにはち切れそうな顔をほころばせて、イチニ、イチニと歩いて行った」(昭和31年5月3日付、苫小牧民報)。

   人数からして大騒動だったのだろうが、これはこれで事なきを得た。

   ■おやつは「自由」か「制限」か

   問題は東小か若草小のどちらかで起こった。新聞は「某小学校」としか書いていない。

   その小学校では5月26日に遠足を予定していたのだが、たまたま授業参観に来た父母が「子どもたちに劣等感を持たせないために遠足の持ち物は同じにした方がよい」と提案した。この学校は裕福な家庭の子が多く、そうでない家庭の子との差がかなりあった。「持ち物」とはおやつのことらしい。

   「いや、実はかねがね、そう思っていたので」と学校側。そこでアンケートを取ることにした。質問は(1)子どもに(おやつを)自由に買わせた方がよいか。それとも学校で決めた方がよいか(2)もし決めるとすれば物で制限するか金額で制限するか(3)金額で制限するとすれば100円、80円、60円のいずれがよいか。

   結果、「せっかくの遠足なのだから、おやつは自由にすべき」という父母と、「劣等感を持つ子がいないように制限すべき」という父母が対立して収拾がつかなくなり、予定されていた遠足自体が延期される始末となった。

   教育委員会は「修学旅行や遠足は遊びではない。特に遠足は自然の美を鑑賞し、健康増進を目的とするので、余計な経費をかけるべきではない」と厳しい意見。その後のあれこれの体験談からして遠足のおやつは、多くは金額で制限されていったようで、逆に言えば遠足のおやつの制限というのは、このような真剣な論議を経て決まっていったのだとも言える。

   ■貧富の差の今昔

   ところで、裕福な家庭と貧しい家庭についてである。

   この時代、苫小牧では子どもたちが「会社の子」と「町(町方)の子」とに区別されることがあった。親が王子製紙に勤める家の子と、それ以外の家の子という意味で、「会社の子」の家庭は安定した給与の他にも何かと会社の福利厚生を受けて裕福だった。例えば「会社」の管理職の家庭と、不漁続きの漁業者や築港景気を当て込んで転入したばかりの商売人、職人の家庭の台所事情を思い浮かべてみるとよい。

   それの差は間違いなく弁当のおかずやおやつに反映され、多分、サケ弁当と日の丸弁当程度の差があることは間違いない。日の丸弁当派が多数派ならばまだよいが、この学校では少数派なのだ。だから問題になった。問題になること自体が立派であろう。

   ただ、歴史と社会全体を考えるなら、この貧富の差は現在と違ってやや楽観的なものであった。経済の高度成長が続き、この出来事から10年後の昭和40年代に入ると、自分の生活水準を「中の中」と考える人が大半を占め、いわゆる一億総中流時代を迎えた。誠実に頑張れば豊かになれる時代の中で、サケ弁当と日の丸弁当の差は、多くの場面で縮まっていった。

   ところがどうであろう。平成不況以降、社員に正規と非正規が生まれ、人が勝ち組と負け組に分けられた。誠実に頑張っても豊かになれない時代の中で、多くの人たちが先の見えない格差に苦しめられている。これは、一体どのような社会の仕組みからなのか。

     (一耕社・新沼友啓)

   水筒をぶらさげた子どもたちが写真の中で笑っている。学帽の校章から西小学校の児童だということが分かる。写真の子どもたちのズボンの丈がさまざまだ。長ズボンかと思えばちょっと寸足らずの子もいる。どんどん成長する子どもたちに、親の財布の中身が間に合わない。半ズボンは裕福な家の子に多かったそうだ。丸刈り、それに坊ちゃん刈り。ゴムの短靴なのは一緒。

   写真は「遠足の日」の登校前の一枚。この頃、小学校低学年は坊主山(王子山)、中学年は緑ケ丘公園、高学年になると北大演習林(研究林)まで歩いていたそうだ。随分と長い距離を歩いている。今の子どもたちはこんなに遠くまで歩けるのだろうか。

   遠足には大抵は、お弁当じゃなく、おにぎりを持って行った。おにぎりの具は決まって梅干しだった。お弁当じゃないのは詰めるおかずを用意できない家庭もある時代だったから。こっそりとおにぎりの中に大きなサケを忍ばせてきた子もいたのは秘密。それでもおやつは持って行けた。決められた金額以内で用意する。おにぎりもおやつも用意できない子もいた。そんな時は先生がたくさんのおにぎりとおやつを持ってきて「一緒に食べよう」と言ってくれた。ほっこりエピソードだ。

   今の子どもたちの遠足の持ち物にはおやつはない。ほんのひと昔前までは遠足の醍醐味(だいごみ)というのはおやつだった気がする。決められた金額の中でおやつを選んで買う。遠足でお友達とおやつ交換して楽しむ。いつの日からか、そんな楽しい時間が少なくなっているような気がする。

   昭和39年の写真は、東小学校の遠足の風景。昭和30年代の始まりと終わりの2枚の写真を見比べると水筒がアルミ合金からプラスチック製に、服装が学生服から洋服に変わっている。この8年の間に時代は目まぐるしく変わっていった。

   当時の遠足場所であった坊主山に登ってみた。そこから見る今の苫小牧と昔の苫小牧はだいぶ景色が変わっていた。沼だったところは住宅地へ変わり、何もなかったところに川(苫小牧川)ができた。王子の煙突も短い3本から1本の大きな高い煙突へと変わった。坊主山も坊主ではなく樹木が生い茂る山になっていた。

  (一耕社・斉藤彩加)

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