苫小牧市の苫小牧工業高校アイスホッケー部が今年度、創部から100年を迎えた。これまで、全国選手権制覇7度、全道選手権制覇11度を誇り、日本アイスホッケーリーグ(現アジアリーグ)や大学アイスホッケー界へも優秀な人材を輩出するなど、日本のアイスホッケー界を支えてきた。同部の小野崎優現監督は「伝統のあるチームということを改めて感じるし、身が引き締まる思い」と話す。
苫小牧工業学校時代の1924(大正13)年、同校に着任した教諭の故・西田信一氏(土木科)、荒木才三氏(機械科)が開部。校舎裏の長さ200メートル、幅20メートルほどの沼を利用して氷を張り、スケートの楽しさを披露して市民に広め、苫小牧が「スケートの街」と呼ばれ、親しまれるきっかけとなった。
26(大正15)年には札幌中島リンクで第3回全道中学校大会(現高校大会)に初出場し、決勝戦に進出。当時、道内のスケート界で名を高めていた強豪・札幌師範と延長までもつれる激戦の末、1―1で引き分け、27(昭和2)年、創部3年で全道初優勝を果たした。
34(昭和9)年には2回目の全道制覇、第4回全国中学校大会で初優勝。36(昭和11)年にも全道、全国を制すと、同年のドイツ、ガルミッシュ第4回冬季五輪大会にアイスホッケーの日本代表には、10選手のうち、同校卒業生の原信夫氏、安保繁氏、北沢正辰氏の3選手が選出されたが、安保氏は兵役のため、出場できなかった。
38(昭和13)年にも全道、全国を制した同校は、全日本アイスホッケー選手権大会に初出場。初戦で明治大を破り、準決勝で立教大と激突するも、4―7で敗れ4位となった。この大会で五輪候補選手として、中学生ながら4人が選出されるも、日中戦争の影響で五輪開催は見送られ出場はかなわなかった。その後、43(昭和18)年には、戦争の厳しさから一切のスポーツ競技は中止されるようになった。
戦後の47(昭和22)年、八戸市で第1回国民体育大会が開催されると、同校は中学の部で八戸中に2―3と惜敗し準優勝となったが、翌年に苫小牧工業高校に改称後、苫小牧東との混成チームにより優勝、翌々年からは単独で出場し、11連覇を達成。同時期には全道大会でも6連覇、全国大会でも3連覇を果たすなど、同校アイスホッケー部の最盛期を迎えた。昭和後期まで覇者として君臨し続けた同校だったが、その後は私立高の台頭などにより、全道、全国大会での優勝から遠のくようになった。
少子化や競技人口の減少のあおりを受けながらも、同校の選手たちは古豪復活を目指し、練習に汗を流す。過去3季はインターハイ出場を逃したものの、昨年の全国選抜大会ではベスト16に食い込んだ。小野崎監督は「もちろんインターハイ優勝というのは変わらず持っている目標。その舞台に出られていないので、まずは出場権を取れるよう頑張っていきたい」と話した。
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スケート滑走の技術が伝わり、創部から1世紀の道のりを刻んで、今も健在の苫小牧工業高校アイスホッケー部。歴史を振り返り、関わった人々の思いをたどる。
1924(大正13)年 ホッケー部創部
26(大正15)年 第3回全道中学氷上競技大会に初出場、決勝戦で引き分け
27(昭和2)年 創部3年目で全道中学大会初優勝
34(昭和9)年 全道中学大会2度目の優勝、全国中学大会初優勝。スピード競技と共に完全優勝で苫工の名が全国に知れ渡る
36(昭和11)年 全道、全国大会共に連覇達成
36(昭和11)年 ドイツのガルミッシュ・パルテンキルヘン第4回冬季五輪アイスホッケー競技に卒業生3人が派遣された
37(昭和12)年 全道大会4度目優勝
38(昭和13)年 全道大会5度目、全国大会2度目の優勝。全国大会に出場した4選手が中学生として初めて五輪候補に名を連ねたが、戦争のため五輪は中止となった
43(昭和18)年 大東亜戦争の厳しさから一切のスポーツ競技が中止された
47(昭和22)年 第1回国民体育大会(国体)に出場し、準優勝
49(昭和24)年 苫小牧東との混成チームで国体に出場し、大会初優勝を果たす
55(昭和30)年 全道、全国高校大会で初優勝
56(昭和31)年 全道、全国大会共に2連覇
57(昭和32)年 全道、全国大会共に3連覇
58(昭和33)年 全道4連覇
59(昭和34)年 全道5連覇
60(昭和35)年 全道6連覇
66(昭和41)年 全道7回目の優勝
68(昭和43)年 全道8回目の優勝
69(昭和44)年 全道9回目、全国4回目の優勝
72(昭和47)年 全国5回目の優勝
73(昭和48)年 全国6回目の優勝
75(昭和50)年 全道10回目の優勝
77(昭和52)年 全道11回目、全国7回目の優勝