「銀河鉄道の夜」などの童話で知られる作家で詩人の宮沢賢治(1896~1933年)が岩手県花巻農学校の教師として修学旅行を引率し、白老を訪れてから22日で100年を迎える。賢治は苫小牧から鉄道で白老に立ち寄り、白老コタン(現高砂町周辺)を見学した。花巻を出発した18日にもアイヌ民族が登場する幻想詩をしたためるなど、白老の旅に並々ならぬ思いがあったことがうかがえる。
賢治は1924(大正13)年5月、3度目となる北海道を旅した。賢治自身の旅の記録は現存しないが、同行したもう一人の引率教諭白藤林之助(のち慈秀、1889~1978年)のメモに白老を訪問した事実が記されている。
賢治は同18日、幻想詩「日はトパーズのかけらをそゝ(そ)ぎ」を書いた。白老のポロト湖周辺をほうふつとさせる「アイヌ」「沼」「水ばせう(ミズバショウ)」といった単語から白老訪問を心待ちにしていたことが推測される。27年ごろの創作「或る農学生の日誌」にも「白老のアイヌ部落、室蘭、ああ僕は数えただけで胸が踊る」(原文)とあり、白老と先住民への強い憧れを思わせる。
一方、白老は賢治らが訪問する前の明治時代から、中高生の修学旅行の受け入れ先となっていたことも分かった。社台のコタンコロクル(村主)森サリキテ(佐代吉、1862~1924年)氏宛てに07(明治40)年5月、青森県立第一中学校(現弘前高校)の校長名で修学旅行を受け入れてくれたことへの感謝の手紙が送られていた。
森氏のひ孫で町社台の自営業田村直美さん(53)が史料を見つけた。森氏の妻の父親は岩手県から社台に移住した人で、岩手県民とアイヌ民族の血を引く田村さんは「賢治が白老のアイヌ文化について興味を持って、詩まで残してくれたことは言葉では言い表せないうれしさがこみあげてくる」と語る。
「銀河鉄道の夜」をモチーフにしたオリジナルコーヒーを提供する町末広町の自営業でアイヌ民族にルーツを持つ貮又聖規さん(52)は「白老は100年以上も前から他者を受け入れる素地があったし、心を通わせ、学び合う文化があったに相違ない。その源流は今、世界と未来に開かれている」と語り、多文化共生のまちと国際的な文化交流のさらなる発展に期待を寄せる。
日はトパーズのかけらをそゝぎ
日はトパーズのかけらをそゝぎ
雲は酸敗してつめたくこごえ
ひばりの群はそらいちめんに浮沈する
一本の緑天蚕絨の杉の古木が
南の風にこごった枝をゆすぶれば
ほのかに白い昼の蛾は
そのたよりない気岸の線を
さびしくぐらぐら漂流する
アイヌはいつか向ふへうつり
蛾はいま岸の水ばせうの芽をわたってゐる
(おまへはなぜ立ってゐるか
立ってゐてはいけない
沼の面にはひとりのアイヌものぞいてゐる) (水は水銀で
風はかんばしいかほりを持ってくると
さういふ型の考へ方も
やっぱり鬼神の範疇である)