追分SL保存協力会会長 細川 友幸さん(76) 鉄道の魅力発信に貢献 乗客の命預かり安全輸送 運転士の誇り

  • 時代を生きて, 特集
  • 2024年5月18日
「事故のないよう列車を運転することを心掛けてきた」と話す細川さん
「事故のないよう列車を運転することを心掛けてきた」と話す細川さん
追分SL保存協力会のメンバーと写る細川さん(前列右から2人目)=19年
追分SL保存協力会のメンバーと写る細川さん(前列右から2人目)=19年
旭川市で国土交通省のSLの試験を受ける細川さん(左)=2008年
旭川市で国土交通省のSLの試験を受ける細川さん(左)=2008年
苫小牧市内のホテルで保険会社の催しに参加した細川さん(右から2人目)=14年ごろ
苫小牧市内のホテルで保険会社の催しに参加した細川さん(右から2人目)=14年ごろ

  長年、日本国有鉄道(国鉄)やJR北海道の機関士として、道内各地で列車を運行し、乗客の移動や貨物の安全輸送を支えてきた。蒸気機関車(SL)の「SLニセコ号」の運転にも携わり、退職後は追分SL保存協力会に加入。現在は会長としてミニSLの運転や道の駅あびらD51(デゴイチ)ステーションでSLの屋外展示を行い、鉄道の魅力を伝えている。

   1948年2月、札幌市で生まれた。当時、自宅周辺に国鉄苗穂工場や苗穂機関区があり、機関車が身近にあった。少年時代は釣りや野球に熱中した。市内の高校を卒業後、66年に国鉄に就職した。

   67年1月、追分町(現安平町)の追分機関区に赴任し、機関助士見習を経て機関助士になった。SLの機関室で高温の火室に石炭を入れ、機関車車内にある水を沸騰させて蒸気を出し、圧力によって走行する車両の運行を支えた。SLは日によって熱の上がり方が変わることもあって、運転には多くの人手が必要で、駅に停車中も点検が欠かせなかった。

   当時、追分駅は夕張の炭鉱で産出された石炭を室蘭や函館方面に運ぶ拠点で、追分町は鉄道のまちとして栄えた。駅周辺は飲食店が多かった印象があるという。72年に苗穂に転勤するまで5年間を過ごした。機関士となってからはSLのほか、ディーゼルの気動車に乗務し、函館本線や千歳線など道内各地の鉄路を運転。乗客の命や貨物の荷物を事故なく運ぶことに心血を注いだ。

   70年代、主要な線区が電化されたことなどを背景に、SLの旅客列車や貨物列車の運転が終了する。87年4月に国鉄が分割民営化され、JR北海道となった後も同社に残り、2000年から14年まで札幌―ニセコ間(途中、蘭越まで延長)の「SLニセコ号」を運転した経験を持つ。13年に退職。40年以上、鉄道に携わったことについて「乗客の命、大切な貨物を預かり、事故を起こしてはいけないという気持ちが第一だった。列車を運転し続けたことは誇りに思う」と振り返る。

   退職後、安平町に移り住み、追分SL保存協力会に参加。21年から会長を務める。毎年、定期的に道の駅でSLの屋外展示を行うが、120トンの車体を安全に動かすため、慎重な作業が必要となる。会員数も年々減少してきた。会の方向性について、町や町観光協会と協議することを希望する。

   JR北海道の路線再編にも関心を寄せる。赤字路線への対応が話題になるが「(お客さんが乗らない列車は)自動車より速度が遅いからでは」との持論を語る。貨物は過去にターミナルを経由せず直接本州方面に生鮮物を送った経験があり「2024年問題もあり、貨物は古い気動車の座席を取って荷物を置くなど、今までにない発想が必要ではないか」と話した。

  (室谷実)

  ◇◆ プロフィル ◇◆

   細川友幸(ほそかわ・ともゆき) 1948年2月16日、札幌市で生まれる。66年日本国有鉄道(国鉄)に入社、蒸気機関車の運転などを行う。2013年に退職。21年から追分SL保存協力会の会長を務める。安平町追分緑が丘在住。

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