「そういえば、なんで髪縛ってんの?」
そう聞かれたとき、私はパッと答えることができなかった。
「えっと…、なんでだろう。なんとなく?」
なんとなく髪を結ぶ「男子」なんていない。
「うち、性別とかよくわかんなくてさ」
スッと言うことができればよかったはずだ。ではなぜ言えなかったのか。その理由は私のこれまでと深く関係する。
まず初めに私が髪を伸ばし始めたのは、小学校5年生あたりからです。それ以前は空手や水泳などを習っていたため、ゴリゴリのスポーツ刈りでした。ですが、空手も水泳も「自分には合わない」と感じやめました。それをきっかけとして私は髪を伸ばし始めました。
その時はまだ、「髪の整え方」や「サラサラ髪の作り方」なんてものは知ったこっちゃなかったので、ただ伸ばしているだけ。親からは「不潔だから切りなさい」と言われました。「じゃあ、きれいに見せよう」なんてポジティブな考えは出てきませんでしたので、ショックでうずくまったことを覚えています。
6年生になると次第にクラスの中で浮いていると思うことがあったり、クラスメイトや他のクラスの生徒と疎遠になっているのでは、と感じることがありました。初めは不思議に思っていましたが、そのうち原因は私の「心」にあるのではないかと考えるようになりました。
特に勇気も出していませんが、周りの人に聞いてみることにしました。
「ねぇ、うちってなんか変?」
「一つ聞いていい?うちってちょっとズレてるところある?」
返ってきた言葉はどれも温かいものでした。けれども、どの言葉も私に気をつかったものであると私は思いました。私自身、周りの感覚とズレている自覚はあったので、色々聞いたところで何の意味もなく、逆にみんな嘘(うそ)をついていると思うようになってしまいました。今も他人から見た自分の話を聞いたりするとどうしても疑ってしまうことがあります。
そんな感じで小学校を卒業。中学に入るとさらに人間関係は複雑になっていくため、私の心はだんだんと日々の生活に追いつきづらくなっていきました。小学校の時ほどでもありませんが、疲れることも多くなって、視野も狭くなり、私は次第に自分を取り巻く環境の全てが悪いと感じるようになりました。
今思うと、「悪い事ばかりではないよな」と思うことも多いですが、「やっぱり違うよな」と思ったり、これからのことに「不安」を感じることも多くあります。
「最近は、校則もある程度自由になり、男子が髪を伸ばしていても認められるようになってきているけど、高校受験の時にはやはり切らなくてはならないのか?」
進路のことを考えているときにふと、そんな問題が浮かんできました。もしかすると高校受験だけでなく、就職するにあたっても同じことがいえるのではないか。調べてみるとやはり「リクルート活動では、みんなが同じような色、同じようなスタイル、同じような髪型が基本であり、個性を見た目に表現することは求められていないことの方が多い」と分かりました。
「なりたい自分になる」ことは我慢しなければならないことなのでしょうか。
「そんなことを考えていられるのは子どものうち」なのでしょうか。
子どもの頃の「ああなりたい。こうなりたい」は大人になると世の中の「常識」の中で消えてしまうのでしょうか…。
ただ、少しずつですが「男はこうすべき」「女はこうすべき」ではなく、「一個人」として物事を考えられる人、多様性を理解できる人が増えてきています。
多様性がさらに認められ、みんなが個性を活(い)かし、アイディアを出しながら、様々な価値観を持つ人が、安心して暮らせる社会になってほしいと願っています。
多くの人に支えられて、これまでの私の足跡がある。そのことを忘れずに、これからも自分の歩むべき、歩みたい道を一歩一歩進んでいきたいです。