景気が上昇を続けている。この時代のわが国経済のバブル期というのは一般に昭和60(1985)年12月以降、平成2年に株価が下落し、翌3年に土地価格が下落して破裂するまでの景気上昇期とされる。ただ、その景気が泡(バブル)のように中身の無いものであるか否かは、当時は分からない。ともあれ昭和63年、苫小牧でも住宅建築や土地売買の活況が続いている。勇払海岸や錦大沼でリゾート基地計画が進み、ゴルフ場開発計画も盛んに浮上した。バブルは、地方に対しては土地絡みのあれこれとして波及し、幾つかの夢とトラブルを発生させていく。この中で苫小牧市は、まちづくりのための第3次総合計画を立案。念願の市立中央図書館やサンガーデンもオープンするが、行く手には多くの課題が山積していた。
■トピアとゴルフ場
前年船出した鳥越市政を困らせたのは、大泉市政時代以来のトピア(再開発ビル)の問題であった。
そのトピアが8月、ついに倒産した。大口債権者を中心に構成する5者会議でも再建策が見いだせず、多額の支援をしてきた苫小牧市も再建を断念して支援打ち切りを決めた。負債総額29億円余を抱え、トピアの運営会社はついに札幌地裁室蘭支部に自己破産を申請した。市街地再開発事業の運営母体が倒産に陥ったのは全国初のケースであった。
倒産の要因として挙げられたのは苫小牧市の人口の伸び悩み、立地する錦町地域の客離れ、キーテナントの不在、面積の中途半端さなどであった。倒産直後にトピアの運営会社役員が異例の記者会見を実施し「トピアの倒産は市当局の強引な指導が要因」と行政責任を追及して大きな波紋を広げた。
倒産後、トピアは破産管財人の管理下に置かれ、苫小牧市を中心に建物を売却する方向で事後処理が進められた。しかし、尋常なことでは売れるはずもない。どうするか。12月議会で、その売却の条件として同市植苗の市有林を上乗せ売却する交渉、つまり誰も買いそうにもないトピアにゴルフ場建設に最適な市有林をセットにして売るという荒技で、西武セゾングループなどとの間で交渉が進んでいることが明らかになった。市有林は新千歳空港からわずか6・5キロ、約143・5ヘクタール。かつて「三百万坪」と呼ばれ、林業の模範的な施業がなされている森林であった。交渉はまとまり、優良な市有林はゴルフ場になった。
■相次ぐゴルフ場開発
その頃、苫小牧市内のゴルフ場は10カ所、195ホール、合わせた面積は約890ヘクタールに上り、高丘森林公園の4倍強に相当した。うち6カ所が昭和45年から50年までの土地ブームの時に開設された。
昭和63年に入って植苗地区に1カ所(27ホール)がオープン。翌年には新千歳空港近くのゴルフ場が9ホールの増設を予定、澄川町北側の丘陵部に36ホール(約286ヘクタール)が昭和65年にオープンを予定していた。このほか苫東工業基地内、植苗地区などでも建設の動きがあり、第2次ゴルフ場建設ブームを迎えた。
第2次ブームのゴルフ場はいずれも道外からのゴルフ客を当て込んだもので、面積も100ヘクタールから300ヘクタール近くと大規模だった。この中で心配されるのは、森林伐採での自然環境破壊や出水対策、農薬の河川への流出、用地買収による農林業への影響など。また、苫東開発の土地ブーム時の人心荒廃の再来やまちづくりへの影響も心配された。
地方におけるバブルの影響は、そのようなかたちで現れたのだった。
■錦岡と勇払のリゾート
前年からこの年にかけて「リゾート」開発計画がはやった。国中で、である。苫小牧でも海と山とで二つのリゾート計画が進められた。共に官主導で、市民にとっては、野のものとも山のものとも分からなかった。
まず、海。
運輸省が提唱するコースタルリゾート開発計画の候補地の一つに、勇払海岸が挙がった。余暇増大とレジャーの多様化に応えて海洋性レクリエーション基地を各地につくる。苫小牧港管理組合はこれを受けて、勇払海岸にマリーナを核としたレクリエーション基地構想を立案し、6月に報告書をまとめた。
構想では、マリーナとファミリーレジャー・スポーツ施設、キャンプ場、緑地・公園などを整備する第一段階計画。それに、21世紀へ向けて旅客ターミナル、イベント広場、海洋研究研修施設、ショッピングモール、多目的ドーム、遊園地などを整備する長期構想から成り、事業費は649億円。「人工島を造ろう」などの声も聞こえたが、検討段階で地域住民や地元の紙・パ企業から注文が付き、当初計画より規模を縮小した。華々し過ぎる机上の計画に地元が待ったをかけたのは当然であろう。
マリーナは64年度から5年をかけて建設することにした。しかし、完成後の収益見通しは、利用率70%でも黒字になるまで約30年はかかると考えられた。
次に山。
道開発局のオートリゾートネットワークに乗ったオートリゾートパーク計画が進んだ。
オートキャンプ場、ファミリーキャンプ場、テニスコートなどスポーツ施設。それにセンターハウス、宿泊研修施設などを整備し、「民活」で運営に当たる構想。こちらは、自然環境保護などが問題視され、市都市計画審議会では態度保留の委員が出て異例の多数決での可決となった。それがオートリゾート苫小牧アルテンである。
バブル時代の日本という国のはしゃぎようが分かる。
一耕社代表・新沼友啓
《この年の出来事》
青函トンネル、東京ドーム、瀬戸大橋が竣工(しゅんこう)/ファミコン用ソフト「ドラゴンクエスト3」発売/カラオケボックス定着/リクルート事件(贈収賄事件)発覚
2月25日 旧苫小牧川の王子製紙工場廃液流出区域の埋め立てが完了
5月 3日 緑ケ丘総合運動公園の市営少年野球場オープン
6月25日 苫小牧測候所がしらかば町に移転
7月17日 学校給食で集団食中毒。冷やしラーメンの錦糸卵にサルモネラ菌。3市1町で8818人。道内最大の食中毒事件
20日 新千歳空港開港
8月15日 苫小牧錦町再開発ビル「トピア」倒産
28日 緑ケ丘運動公園に市営サッカー場完成
9月28日 西田信一(元参議院議員)、田中正太郎(元苫小牧市長)、大泉源郎(同)を名誉市民にと市議会可決
10月2日 川沿公園体育館開館
11月2日 苫小牧市立中央図書館とサンガーデンが落成式。翌3日から開館
12月9日 第41回全日本フェンシング選手権大会が総合体育館で開催
22日 住吉ライブリーセンター開館
苫小牧市博物館開館から3年。続いて図書館も開館し、苫小牧の文化の拠点は力強く広がった。以下は、苫小牧民報の昭和64年新年号に向けて、苫小牧市博物館副館長の佐藤一夫さんが語った文化交流拠点・苫小牧の話。
「北海道産の黒曜石は旧石器時代からすでにサハリン、カムチャッカ半島にまで運ばれていたことが分かっています。苫小牧では白滝産のものと赤井川産のものが6対4の割合で発掘されています。黒曜石が運ばれた道は黒曜石街道と呼ばれ、北はシベリア、サハリン、南は東北地方まで続いていたようです。
苫東工業基地内静川22遺跡で縄文時代前期の貝製の装身具が見つかっています。これらは沖縄など西南諸島産のタカラ貝、ベンケイ貝、小さな巻き貝でできた首飾りや腕輪です。すでに6000年も前から、南の地方の珍しい貝が縄文人の身を飾っていたわけです。おそらく、これらの貝は西南諸島から太平洋岸の『貝の道』を通って北上してきたのでしょう。
苫小牧や千歳地方は石狩低地帯の南に位置するという地理的環境が作用し、北と南の文化の道の交差点だったといえ、歴史的にも考古学的にも非常に興味深い地域なのです」
(苫小牧民報昭和64年1月1日付新年特集号より)