昨年の東京の夏は想像以上に暑く、私は体中が溶けそうになりながらアイス屋の列に並んでいました。私の後には中国人の観光客が数組いて、楽しそうな話し声が聞こえていました。その時、突如肩に石でも落ちたかのような重い何かが当たり、咄嗟(とっさ)に振り向くと、中国人の男性が肘を押さえてこちらを見ていました。相当力が入っていたのか、肩はだいぶ痛かったけれど、『わざとじゃないだろうし、外国人だから』と思い直して、汗だくの顔を前へ戻そうとした時、「ソーリー」と耳元で謝罪の声がしたのです。この声を聞いた時、驚いてしまったのと同時に自分が恥ずかしくなりました。『外国人だから周りが見えていなくても仕方ない。ぶつかったぐらいで気にするな』そんなふうに私が一人で納得していた一方で、中国人の彼は日本人の私に伝わるように英語で謝罪してくれたからです。
とんでもない間違いをしてしまった、と後から反省した経験から、今回私はこの出来事で分かったことを振り返ってみました。
まず明確だったのは、私が外国人に対して差別・偏見の感情を少なからず持っていたということです。外国人が嫌いだと思ったことはなく、知識としては同じ人間だから「人種差別」は絶対にしてはいけないと理解していたのに、気付かないうちに心のどこかで『日本人の当たり前が外国人にできなくてもしょうがない。日本人と外国人は違うから』そう思ってしまっていました。
ここから私が学んだのは「日本人だから」「外国人だから」という考え方は間違っているということです。日本人でもルールやマナーを守れない人はたくさんいます。それは「日本人だから」ではないのです。私が満員電車に乗っていた時、そこには周りの乗客を気にせずに大声で電話をしている人もいれば、高齢の方に席を譲っている人も見ました。つまり、同じ「外国人」でも一人一人全く違う人間で、「外国人だから」の一言で一緒にしてはいけないのです。
差別の怖いところは、差別をしている本人にその自覚が無い場合です。自分で気付いていなければ、直すこともできません。差別の種類や程度はそれぞれ違うでしょうし、自分では気付かないうちに誰かを傷つけてしまうこともあってもおかしくはありません。だからこそ、あの時私は自分の考えを見直す機会に出会えて良かったと思うのです。
近年、日本に訪れる外国人観光客が急激に増えている、とニュースなどでよく聞きます。
その理由の一つに、外国人が過ごしやすい工夫がたくさんある、という点があるのだと思います。例えばパンフレットに様々な国の言葉が使用されていたり、英語が話せる従業員もたくさんいたりします。このように、温かく迎え入れる気持ちを日本人一人一人が持つことがとても大切だと私は思うのです。今までの私と同じように、外国人に対して間違った思い込みをしている人もいるかもしれません。その人達にも、私のように気付けるということを知ってほしいのです。知ろうと思えば、気付ける場面はどこにでもあるのですから。そして、私自身もこの気持ちを忘れずに持ち続けていき、人種の違いによる壁を乗り越えられる社会になっていけるようにしていきたいです。
これからも日本へ訪れる外国人は増えていき、そのたびに異なる文化に戸惑ったり、会話が通じないことに焦りを覚えたりすることがあるかもしれません。しかし、そのような時に「外国人だから」で終わらせずに、彼らの考え方に耳を傾け、一生懸命気持ちを伝えようとする姿勢を見せることができれば、心がつながるための一歩を踏み出すことができるはずです。なぜなら私達は、違う人種である前に、同じ人間なのですから。
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第47回苫小牧市中学生主張発表大会(市教育委員会主催、市中学校長会共催、2023年12月、市文化交流センター)で、市内の各中学校の代表生徒がそれぞれの思いを発表した。最優秀賞、優秀賞、優良賞、努力賞に選ばれた作品を紹介する。