昭和62(1987)年のこの年、苫小牧の建設業界は、久々の建設ラッシュに沸いた。ここ7、8年は1400から1700戸ほどだった住宅建築が2400戸にも上った。分譲住宅も売れた。バブルへの先駆けか。4月、市長選挙で元市議で元市職労委員長の鳥越忠行氏が民間出身で現職の板谷実氏を大差で破って当選(5万1225票対3万5327票)。「市役所マシンが高速回転した」ともいわれた。民間市長は1期で終わった。鳥越新市長の前には方針を大転換した苫東開発、先の見えないトピア、千歳川放水路問題と難題が山積していた。
■西港再開発の浮上
前年、「重厚長大」から「産学住遊」へ、つまり重化学工業基地開発から工業生産、学術研究、住居・生活、レジャー機能などを備えた複合開発へと基本方針を大転換した第3段階計画が決定(昭和61年6月)された苫東開発に、札幌通産局長などの主導で多くの提言がされた。「明日の北海道を拓く二百人委員会」「北海道を考える懇談会」「大規模プロジェクト活性化に関する提言」などが、あれこれの肉付けを展開した。バイオ、宇宙研究開発施設、外語大学分校、ヨットハーバー、オートキャンプ場、遊び心と芸術心のある新しい知的産業基地、国際コンテナ基地…。
しかし、これらに対する地元苫小牧の反応がいま一つ弱いといわれたのは、空念仏のように繰り返される夢と希望のプランに食傷気味だったからかもしれない。むしろ、現実味を帯びていたのは苫小牧港・西港の再開発であった。
昭和38年に入港した第一船は「石炭船」であり、接岸したのは石炭岸壁であり、積み出された初荷はもちろん石炭であった。その石炭の時代が終わろうとしている。折からの円高で、輸入炭が幅を利かせ道内炭は売れない。最盛期には年間約380万トンも積み出したのに、61年度には約60万トンにまで落ち込んだ。62年の貯炭場には積み出されそうにもない石炭の山が築かれていた。
そんな中で「この石炭ふ頭(水深9メートル3バース)、貯炭場(24・4ヘクタール)を活用して西港の再開発を」という構想が浮上した。「需要増の著しいコンテナ船やRORO船など近代荷役に対応する物流基地として活用する。市民と港の接点となるポートミュージアム(港博物館)、や国際会議場、市民が気軽に立ち寄れる小公園などを造る」
公共岸壁である石炭ふ頭を管理する苫小牧港管理組合、貯炭場を所有する苫小牧港開発会社が検討を始めた。その頃流行の「国際会議場」はともかくとして、国際コンテナターミナルを核とする幾つかの再開発が着実に行われ始めたのはそれから間もない平成4年のことであった。
■正念場の千歳川放水路計画
「自治体は、国の言う事には逆らえないはずだ」―そんな姿勢を見せた開発局が千歳川放水路問題で大反発を食らって、自らを窮地に追い込んだ。
洪水対策のため千歳川から苫小牧の勇払まで巨大水路を掘って排水する。その水路のルートは美々川~ウトナイ湖を通す西ルートか、遠浅・植苗の酪農地帯を通す東ルートか、その中間を通す中ルートか。「調査をする」と言っていた開発局が、その結果の発表もなく東ルートでのパンフレット「千歳・苫小牧グリーンオアシスライン」を作っていることが判明したのが6月のことだ。報道が騒ぎ、その直後に「東ルート決定」を正式発表した。さらに、8月下旬までに、「東ルート」で8億円の着工予算を盛り込んだ63年度開発予算概算要求案までまとめてしまった。
これには、それまでおとなしくしていた苫小牧市や早来町、その議会が「地元無視だ」と怒った。反対や疑問の声は、これまでの農業、自然保護団体の枠から自治体レベルにまで拡大し、早来町では町議会が「千歳川放水路のルート決定撤回要望意見書」を満場一致で採択。次いで苫小牧市議会が「着工費要求は慎重に」との要望意見を全会一致で可決して、国の強硬姿勢に待ったをかけた。以降、当初推進姿勢を示していた横路孝弘知事も慎重論を取るようになり、開発局にとって無視できぬ包囲網が出来上がったのだった。国のごり押しに物申すという気概がこの時代、この地方の自治体にもあった。
■暴走族取り締まりで拳銃発射
7月16日といえば、ちょうど、大人たちが千歳川放水路問題でかんかんがくがくとやっていた頃だ。午後8時50分ごろ、木場町の大型店「イトーヨーカドー苫小牧店」の駐車場で暴走族と思われる少年40~50人が騒いでいると、近所の住民から苫小牧署に110番通報があった。同署はパトカーを出動させるとともに、駅前派出所から警官3人を現場に急行させた。このうち2人が男たちに「何をしているのか」と声を掛けたところ、「やってしまえ」という合図とともに30人ほどが二手に分かれて木刀や鉄パイプで殴り掛かった。このため警官1人が拳銃を空に向けて3発発射したが頭部を殴られ、さらに1発地面に向けて発射。これが少年1人の太ももを貫通して重傷を負わせ、グループはけが人を抱えて逃げ去った。
苫小牧署は署員を非常召集。1時間ほど後、撃たれた1人が市立総合病院に担ぎ込まれたところを押さえ、関係者16人を連行した。グループは暴走族「暴奇蘭」(あばきらん)のメンバーだった。
この年、同署が確認していた暴走族グループは「暴奇蘭」のほか「神鬼楼」「神出鬼没」の計3団体約100人。メンバーは15歳から19歳までの少年。いずれも事件と前後して、グループは解散に追い込まれていき、世間は胸をなで下ろした。
ところが取材した記者は「警察署の廊下で事情聴取の順番を待つメンバーたちは、ごく普通の少年に見えた。話をしても暴走族とはかけ離れたイメージだった」と言う。取り調べに対して少年たちは「学校や職場、社会に対するうっぷん晴らし」だったと説明した。爆音とクラクションを鳴らし、白い目で見られることが快感だったという。手段を問わず注目されたいという少年たちの気持ちは、社会や職場、学校や家庭がどのように作用し合って生まれたものだったのか。
一耕社代表・新沼友啓
《この年の出来事》
NTTが携帯電話サービスを開始。システム・端末は自動車電話と兼用。重さ900グラム(今のスマートフォンは140グラム前後)連続通話60分間。スマートフォンの普及はその20年後から
1月14日 前年の人口増加がわずか2人だったことが明らかに。統計上は0%増。市制施行後最低
17日 苫小牧市営球場を「オーロラ球場」、新しい第2球場を「緑ケ丘球場」と命名
2月 1日 苫小牧市農協などが「とまこまいハスカップわいん」(720ミリリットル、1,000円)を発売
4月25日 苫小牧市長選は新人の鳥越忠行氏(47)が現職の板谷実氏(58)に大差をつけて当選
6月 5日 道開発局は千歳川放水路計画について「東ルートに絞って進めたい」と正式発表
8月 1日 暴走族「神鬼楼」が解散
19日 弁天貝塚(幕末~明治初期)から石製ランプ台や古銭など貴重な遺物が多数出土
9月13日 北海道開発庁は「オート・リゾート・ネットワーク計画」でキーサイトを錦大沼公園周辺に決めた
市長の座に就いた鳥越忠行氏は、初登庁の苫小牧市役所と苫小牧港管理組合で次のように所信を話した。
「責任の重大さに身の引き締まる思いだ。職員には、市長・鳥越個人のためではなく市民・郷土のために働く自覚、惰性に流されず時代の変化やニーズを考えた大胆な発想の転換、庶民の心を忘れず行政のプロとしての能力発揮を願いたい」「内部的には活力を生み出す体制固めを行い、企業誘致と地元産業の活用を柱に雇用の創出に全力を挙げる。(助役人事は)まだ、白紙状態だが、行政改革を訴えてきたことや効率的な運営からみて二人体制がいいのかどうかを見詰め直したい。基本的には内部登用する」(市役所にて)
「港の発展、港を中心にした苫小牧の産業基盤整備は不可欠な条件。当面、東港の中防波堤早期着工、港湾整備促進のため皆さんの先頭に立って働く。鳥越は革新だから中央や経済界とのパイプが弱いといわれて心配をかけているようだが、とにかく誠心誠意頑張れば前途は開ける。漁業者の息子に生まれたが港のことは皆さんの手で補ってもらわなければ」(苫小牧港管理組合にて)
昭和62年5月1日、5月2日付「苫小牧民報」(概要)