ウクライナと言えば小中学生の頃の社会科。世界地図のあの辺りの問題には、穀倉地帯という文字に○を付けたり、小麦という文字と線で結んでおけば―そんな失礼な記憶がある。1996年秋、ウクライナ大使になった黒川祐次氏は、中公新書「物語 ウクライナの歴史」で、チャイコフスキーもドストエフスキーも宇宙船も、栄誉の頭には必ず「ソ連の」「ロシアの」との接頭語を付けられ続けたウクライナの悲哀を紹介している。
1991年のソ連崩壊で広大な国土面積を持つ独立国家になったが、その内実がどんなものだったのか。2年前のきょう2月24日、世界に明らかにされた。ロシアが、ウクライナへの軍事侵攻を始めた。「まさか」と思ったが事実だった。プーチン氏は、核兵器使用の可能性も臭わせて、世界中の平和への期待を打ち砕いて見せた。砲撃される高層住宅を背景に、親や兄弟のような年齢の人たちが逃げまどう姿が連日、テレビに映るようになった。孫と同年代の防寒着を着た少年が泣きながら歩く姿が、つらかった。
「侵攻2年 見えぬ終わり」「ウクライナ守勢に」「民間人1万人死亡」「和平 広がる悲観論」。きょうの新聞朝刊の見出しだ。聞こえてくる情報の重さ、つらさに耐える日々は、まだ続く。(水)