白老町議会議員を10期、議長を2度務め、昨年10月で議員生活に区切りを付けた松田謙吾さん(81)。高度成長で人口が増え続けていた1979年4月に初当選。未来への夢と希望にあふれた昭和時代が続くと思えた時代だった。平成以降は人口減少が続き、町財政も厳しさを増している。まちの成長と減衰を目の当たりにしながら自身の半生を振り返る。
白老村萩野(現町北吉原)で船頭を父に持つ9人きょうだい(5男4女)の四男として42年に生まれた。当時は60世帯ほどが肩を寄せ合って暮らしており、「幼少期は貧しかった」と振り返る。眼前に広がる青い海で地域の仲間たちと魚釣りをしたり、冬は雪遊びを楽しんだりと充実した日々を過ごした。
萩野小を卒業した頃、村は白老町に。萩野中(現白翔中)を卒業後、町内のブロック工場に勤務。19歳で大昭和製紙(現日本製紙グループ)に就職した頃は、家庭問題に悩む同級生に同情して一緒に家出をしたことも。24歳で結婚し、26歳で2代目町長の山手一雄氏が創業した山手木材に転職した。そこで現場責任者となり、山林で木材の切り出しに励んだ。そんな中、西脇正男社長(当時)から声が掛かり、政治への関心を強めていった。
37歳で町議選に26人中17番目で初当選。後ろ盾のない自分にできることは町民生活の負担感をなくすことだと決意した。「絶対に議論で負けない議員になろう」と法律や予算の書類と首っ引きで勉強にいそしんだという。道路や施設の建設予算では、土木会社で働いた経験から、少しでも多いと感じると「なぜもっと金額を減らせないのか」と訴えてきた。
昭和末期にかけてポロト湖の埋め立て問題が持ち上がると反対の論陣を張って中止に追い込んだ。「当時の議会も経済界も、ほとんど賛成に傾いていたが環境を守る町民の皆さんの粘り強い反対の思いが実った」と語る。2020年に開業した民族共生象徴空間(ウポポイ)を訪れた際、国立アイヌ民族博物館の2階からポロト湖を望んだとき「やはり自然のまま残してよかった」との思いを新たにしたという。
高度成長期に相次いで建設した公共施設は老朽化し、財政負担の大きい施設更新などが控える。町立病院も改築が始まり、行政や議会は新陳代謝が進む。80歳を過ぎて引退を決意した昨秋、長男の力さん主催の慰労会で孫たちから81歳にあやかった背番号付きのプロ野球巨人のレプリカユニホームをプレゼントされた。現在は孫と巨人戦を観戦しに行くことが楽しみでならない。
一方で、今の議会に思うこともある。「まちが下り坂になっていくのに歯止めをかけるのは今の若い議員だ。農林漁業と観光が大切な白老には人を引きつける魅力がある。行政と議会と町民が手を携えてまちの再生に取り組むことが大切だ」。エールを送る目の奥が一瞬、輝きを増した。
(半澤孝平)
◇◆ プロフィル ◇◆
松田 謙吾(まつだ・けんご) 1942(昭和17)年7月、白老町北吉原で生まれた。79年、町議に初当選。91~93年と97~99年に産業建設常任委員長。99~2001年に副議長、01~03年と19~23年に議長を歴任。趣味は自宅の庭いじりと食事の支度や洗い物。白老町北吉原在住。