苫小牧ってどんな町なのだろうか―。よく、訪れた町や自分の地域の歴史や文化を調べる。あるガソリンスタンドの所長は「商売がすごくやりやすくていい町」と答えた。それはいい町なのだろうか、よく自問自答している。
朝鮮戦争が勃発した1950年、福島県郡山市に生まれた。朝鮮特需などにより、日本が高度経済成長を迎える中、東京都内や神奈川県内で生活。63年、中学2年生の時、父親が親戚のいる苫小牧で商売をしようと考えたことから、初めて苫小牧の地に足を踏み入れた。「(本州と違って)駅と駅の間に住宅がない」と印象を抱きながら汽車に揺られて来苫した。
苫小牧西高校を経て、北海道工業大学機械工学科(当時)へ進学し、卒業後は建物の設備関係の仕事に従事。当時は市内錦町に居酒屋などが次から次へと建ち、よく修理工事の依頼が入った。給排水管工事では「他の職種のようにあす(修理に)行くというわけにはいかず、夜中に電話で起こされることもしばしば」と語る。
仕事で付き合いのあった工務店から「独立してみたら」と背中を押され、2003年に独立し法人化。この20年間では、世界金融危機が起こるなど取引先が倒産し災難にも見舞われたが、どうしたら快適な暮らしをしてもらえるだろうかと、日々考えながら仕事に向き合った。「金はなくなってもまた稼げる。ただ、信用は一生かかっても取り戻せない。信用だけはなくすな」との言葉を大切に働き続けてきた。「親子2代にわたって家を建てる人も多く、周りの人のおかげで、ここまでやって来られた」と振り返る。
「人に恵まれた」のは特技、趣味の世界でも同様。前職の知り合いからの誘いで始めたクレー射撃では、めきめき上達し、岩手県の花巻市クレー射撃場で行われた第9回安全狩猟全国射撃大会で個人3位、団体2位に入賞するほどに。高校生のころから乗り始めたオートバイではさまざまな地域を旅し、多様な人とつながった。特に30代半ばからはオートバイ仲間と1年に1度東北地方に旅行へ。毎回必ずホテルではなく老舗旅館に泊まることをルールにし、造り酒屋やその地域ならではの名産品を頬張った。「オートバイの傍ら仕事をしていた」と笑うほどだ。
苫小牧に移り住み60年がたった。自分を受け入れ、育んでくれた苫小牧にどう恩返しができるかよく考える中で、ふるさと・郡山市の近くの会津地方に伝わる言葉「会津の三泣き」を思い出すという。会津の人の気質を表した内容で、保守的な土地柄である会津の人のよそ者に対する厳しさに初めて泣き、会津の人の温かな心と人情に泣き、会津を去るときに離れ難く泣く。
比較的、流入人口が多い苫小牧。苫小牧に住む人たちの受け入れに泣き、厚い人情に泣き、苫小牧を離れることになったときに泣く―。「苫小牧の三泣きと呼ばれる日が来ることを願っている」と思いをはせる。
(樋口葵)
◇◆ プロフィル ◇◆
佐久間良一(さくま りょういち)1950年2月、福島県郡山市生まれで、63年に来苫。苫小牧の生活で驚いたことは「赤飯に甘納豆が入っていたこと」。1990年に結婚し、2人の息子を授かった。休日はクレー射撃やオートバイのほか、本を読んだりレコードを聴いたりしている。苫小牧市柏木町在住。