◇12  昭和30年前後 丸山小と巡回文庫 へき地の子どもたちに本を なけなしの蔵書から貸し出し 風景今昔 森林の中に残る学校の跡 クリの大木が子どもたちを見守った

  • 昭和の街角風景, 特集
  • 2024年9月23日
巡回文庫がやって来て本を借りに集まった集落の人々(昭和30年ごろ)
巡回文庫がやって来て本を借りに集まった集落の人々(昭和30年ごろ)
校庭の掃除をする丸山小の子どもたち(年代不詳)
校庭の掃除をする丸山小の子どもたち(年代不詳)
営林署の官舎が並んでいた丸山の集落(年代不詳)
営林署の官舎が並んでいた丸山の集落(年代不詳)
昭和49年ごろの「移動図書館」
昭和49年ごろの「移動図書館」
森林の中に立つ「丸山小学校之跡」の石碑
森林の中に立つ「丸山小学校之跡」の石碑

  戦後間もなくから40年ほど前までの30数年間、支笏湖の近くの豊かな森の中に「苫小牧市立丸山小学校」という小さな学校があった。戦争で荒廃した森林の復興、洞爺丸台風(昭和29年)の風倒木処理で多くの営林署職員、林業者がこの地で生活し、その子どもたちが通った。苫小牧の街からおよそ20キロ。その学校で学ぶ子どもたちと家族に、図書と文化を届けたのが苫小牧市立図書館の「巡回文庫」だった。

   ■丸山集落略史

   丸山という集落の歴史は面白い。その大森林の中に人が定住し始めたのは明治時代の中頃だったという。明治29年、津田震一郎という人が、今ある「丸山小学校之跡」の石碑からもう少し奥の川の縁に「北海工場」というマッチ小函素地工場を建てた。

   マッチの小函(箱)の素地や軸木の生産は「鹿肉缶詰」の生産とともに苫小牧の工業の先駆けである。その頃、マッチ小函はヒノキで作られることが一般的だったが、ヒノキは高価だった。それで津田は、木肌が美しく加工がしやすいエゾマツでこれを作ることを思い付いた。何といってもエゾマツは「蝦夷桧(エゾヒノキ)」とさえ呼ばれていたことがある肌の美しい木だ。北海道におけるエゾマツ製マッチ小函素地生産の先駆けの地が丸山であった。

   津田の工場ができてから間もない明治37年、9月27日というからちょうど今頃の季節、「一晩泊めてくれないだろうか」とやって来た数人の男たちがいた。王子製紙の工場用地を探しに支笏湖へ向かう途中の鈴木梅四郎らの一行だった。彼らはここで一泊し、のち支笏湖に至って、千歳川に発電所を建設しようと決意する。

   それから間もなく、軽便鉄道(山線)の敷設が始まり、丸山には「13哩(マイル)」という名の駅ができた。苫小牧から13哩の場所にある。山線機関車が米国製だったので距離単位もマイルを使った。この頃にはすでに津田工場は閉鎖されており、以降、丸山は製紙用材集積地の一つとされ、森林育成の苗畑もできた。昭和19年には、近くの小山の形から「丸山」を正式な地名とし、その後、太平洋戦争、洞爺丸台風で荒廃した森林の復興の拠点となる。

   ■巡回文庫

   昭和24年、この地に苫小牧東小学校の分校が開設され、同26年には丸山小学校として独立した。

   それまで、支笏湖周辺や丸山の子どもたちは、千歳の鵜冊舞にある小学校に通っていた。この小学校は千歳川に発電所を造り、多くの職員を定住させた王子製紙の私立であった。のち、あれこれの経緯から支笏湖畔に小学校ができたが、丸山の集落では独自に小学校設置の運動が進んだ。ともあれ丸山に小学校ができた。

   この戦後復興の時期苫小牧では、東京都や広島県などから大空襲や原爆で被災した多くの人々が弁天や柏原などに緊急入植し、集落をつくった。いわゆるそういう「へき地」に小学校ができ、開館して間もない苫小牧市立図書館は、「へき地の学校に図書を、文化を」と、わずか1万冊のなけなしの蔵書の中から何百か何千冊かをジープに積んで毎月1回、集落の集会所や学校に運び、貸し出すという巡回文庫を始めた。文化の享受は、街でもへき地でも平等であるべきだった。それが昭和29年のことであり、その様子が今回紹介する大きな写真である。行政が持つ本来の役割と温かさに触れた人々の様子を見てほしい。

   ちなみに丸山小学校は、営林署の職住分離から同地区に定住者がいなくなり、昭和57年に閉校した。

   ■「本を読まない」社会

   近年、「本を読まない」という人が増えているという。調査(2023年度、文化庁、回答数3559人)によると、1カ月間に本(漫画・雑誌を除く、電子書籍を含む)を「1冊も読まない」と回答したのは62.6%、「1冊以上読む」という人は36.9%だった。この調査は08年から5年ごとに行われており、18年までは「1冊も読まない」が46~47%だったが、23年度調査では急激に15.3ポイントも増えた。「1冊以上読む」は15.7ポイント減少した。冊数の内訳は「1、2冊」がほとんどで27.6%、「3、4冊」が6.0%。スマートフォンやSNSの普及が原因とみられ、文化庁は「国語力の養成に影響が出かねない」という。

   しかし、どうであろう。本や読書、情報を得るという行為の柱が、文化から経済の分野に移ったことに起因するものはないのか。「本を読まない」ことは国語力だけにはとどまらず、モノを考える力やコミュニケーション能力、社会の構造にまで及びそうだ。

    (一耕社・新沼友啓)

   本欄上の写真。4~5歳ぐらいの男の子がうれしそうに本を読んでいる。これは昭和30年ごろ、丸山小学校に巡回文庫が来た時の1枚。大人も子ども集まってきて、本を手にしている。丸山小があるのは、支笏湖近くの山中。毎月定期的に街からやってくる本に、みんなワクワクしていたのだろう。

   この頃、へき地の学校にあった図書は限られていた。だから毎月どんな本がやってくるのか巡回文庫を楽しみにしていたのだ。本は娯楽や、大事な情報源であり、巡回文庫の利用は文化に触れることでもあった。

   今の時代の子どもたちはどうか。本に触れる時間や、本を楽しむという気持ちがどれだけあるだろう。学校には当たり前のように図書室があり、地域のコミュニティセンターの中にも図書室がある。苫小牧の中央図書館に行けば50万冊の本にも触れられる。なのに「本を読みなさい」と叱られるようになったのはいつの頃からだろう。

   丸山小の跡を訪れた。支笏湖道路から雑木林に入ったところに「丸山小学校之跡」と刻まれた石碑があった。近くにクリの木が数本あり、「昭和27年5月、丸山小学校初代校長宮脇公厳さんが植えた」と記された看板が掛かっていた。樹齢70年以上の大木はこの地で子どもたちが走り回るのを見守っていたのだろうか。校舎があった辺りは誰かが今も草刈りをしているようだ。近くには沢があり、夏には水遊びをしたのだろうか。都会では味わえない体験をたくさんできるこんな大自然の中で、本に触れられる時間はとてもぜいたくだ。   (一耕社・斉藤彩加)

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