「道路」というものが、生活の場から交通網という都市施設へと変わり、身の近くから離れていったのは、いつの頃からだったのだろう。今、年齢が70歳前後の人たちなら記憶にあるかもしれないが、昭和30年代まで子どもたちが道路で遊ぶ風景は当たり前に見られ、その道路を近所の人たちが掃除をし、日曜日の朝には子ども会が道路清掃活動をした。昭和40年代、車社会の到来の中でその姿が見られなくなり、道路は車で早く便利に遠くへ移動するための施設、子どもたちにとっては危険な場へと移り変わっていった。その風景を以下に見る。
■西弥生青年団と子ども会
昭和36年5月、「西弥生」というから現在の弥生町と矢代町を合わせた地域に「西弥生青年団」というのができた。中学卒業後の青年男女20人ほどが集まって地域活動をする。いわば小中学生による子ども会の「兄(姉)貴分」のようなもので「町内の環境浄化」を目的とする。(昭和36年6月11日付「苫小牧民報」)
活動は道路清掃や防火パトロール、そしてたまにフォークダンス。当時、道路はほとんどが未舗装で下水設備などはもちろん無い。家庭から出るごみを集積する木製で1メートル四方ほどの「ごみ箱」がまだあちこちにあり、その管理が行き届かずにいた。空き瓶や空き缶、廃材の端切れなどが道路や空地に捨てられている光景もしばしば見られた。
青年団は、朝のラジオ体操の後それらの片付けをやり、文字通り町内の環境浄化をする。このほか、秋から春にかけては「火の用心」の夜回りをする。夜9時から、拍子木をたたき「火の用心、燐寸(まっち)一本火事のもと」と叫びながら町内を巡回する。
小中学生がそれに習う。日曜の朝には家の前の道路、ひとブロック100メートルほどを十数人の子どもたちが竹ぼうきや庭ぼうきで掃除をする。掃除といっても、まあ、地面に筋をつける程度ではあったが。
■舗装道路は発展の象徴?
昭和39年秋のこと、苫小牧市役所に市内に住む中学3年生から1通の手紙が届いた。住所が「木場町」というから、3年前(昭和36年)に開校した和光中学校の生徒だ。
「苫小牧市長さん、わたくしは中学三年の生徒です。市の発展は、まず道路の完全整備からと思います。市内の主な道路も、少しずつ舗装されてきて本当にうれしいことですが、まだ、悪い道路がたくさんあります。せめてバスが通る道路だけでも舗装してください」(昭和39年9月20日付「広報とまこまい」)
この頃、苫小牧市内で舗装された道路といえば全体の13%ほどで、国道(大通など)と道道(駅前通など)を除いた市道については、三条通と王子正門通、新川通の延長5000メートルしかなく、市道全体の1.5%でしかない。ほとんどが未舗装。舗装道路はまちの発展の象徴だった。
中学生の手紙に市は次のように答える。
「昔、道路はおもに人が歩くためのものでしたが、今では各種の自動車がいろいろなものを運ぶ経済発展の重要な要素をもつように変わってきました。最近の苫小牧市の人口の急激な増加はますます道路の利用を増加させており、市長への手紙にも道路整備舗装の要望が30%近くも占めており、(道路舗装は)ぜひ解決しなければならない重要事項の一つとなっています」
■マイカー時代の到来と道路舗装
「各種の自動車がいろいろなものを運ぶ」時代は昭和30年代に到来し、次の40年代はマイカー(自家用車)の時代であった。
先の中学生が市長に手紙を送った昭和39年、苫小牧市内の自動車保有台数はすでに3万台を超えている。うち乗用車は1万9000台強。自動車の量産体制の進展の中でマイカーブームが起こり、苫小牧では昭和40年代には14.6世帯に1台、同50年には2世帯に1台、平成10年にはほぼ1世帯に1台、乗用車を保有するようになった。
自動車の時代を迎えて、道路舗装は急務であった。昭和38年度に1.5%しかなかった市道の舗装率は、同49年には13.8%、その10年後の昭和59年には31.0%に急上昇した。マイカーが一家に一台となった平成10年には64.3%となり、令和5年には88.5%に及ぶ。
この自動車社会の進展の中で、かつて隣近所の道路の上に見られたほのぼのとした風景が姿を消していった。わたしたちはそれに代わる日常のコミュニティーの場を、どこかに見いださねばならない。
(一耕社・新沼友啓)
紙面上の写真の、大きな木製の車輪が付いている荷車は「大八車」というものだそうだ。昭和30年初めまで荷運びに使われており、一般家庭にもあった。荷台は板が隙間を開けて張られている。
写真の中で、大きな大八車を押すのは小学4年生ぐらいの男の子と、幼稚園児ぐらいの子。そして引っ張り役は小学2年生ぐらいの女の子だ。隙間から地面が見える荷台に乗る小さな子は、大きな麻布か毛布のようなものに包まれて、何やら不安そうな顔をしている。他には大きくふくらんだ麻袋も積まれているから、何かを運んでいるのか。それとも遊んでいるのか。
この時代は、身の回りにあるものを何でも遊びの道具にしていた。というよりは遊び道具が少なかったから、その辺にあるもので遊ぶ。いろいろな場所で遊ぶ。大八車やリヤカーは格好の遊び道具だったし、家の周りや道路はこの上ない遊び場だった。今こんな大きな荷車を使って子どもたちが遊んでいたら、大人たちは声を荒げて叱るだろう。
写真が撮られた場所は弥生町の王子社宅街のどこからしい。
子どもたちの遊ぶ姿を見ようと、住宅地の公園を訪れた。 でも、遊べるはずの公園でも、ネットで囲われた遊具に立ち入り禁止の紙が張ってある。他の遊具にも使用禁止のテープがぐるぐる巻きに巻かれていて、この公園で遊べる遊具はブランコのみ。子どもたちはこの公園を利用していないのか、草が伸び切っていた。近年、遊具が老朽化し、市が市内の公園の遊具の点検整備、更新を進めているのだという。公園と遊具が、子どもたちから離れていく。
(一耕社、斉藤彩加)