今年のお盆休みは8年ぶりに江差(桧山管内)を訪れた。380年に迫る歴史を持ち、道内最古にして随一の絢爛(けんらん)豪華な夏祭り「姥神大神宮渡御祭」をもう一度この目で見たくなったからだ。毎年8月9日からの3日間、全国に散っている江差っ子たちがニシンの群れのように故郷に舞い戻り、まちは祭り一色となる。先導する神輿(みこし)を、町内ごとに編成された巨大な山車(江差では山=ヤマと呼ぶ)が13台も連なって供奉し、暑さのなか3昼夜にわたってまちを練り歩くのだから、もはや命懸けである。
山のてっぺんには神々の依代となるトドマツを立て、山ごとに異なる偉人の大人形を飾って守護するのが古くからの習わし。神武天皇や神功皇后、楠木正成や加藤清正、水戸黄門と顔触れも多彩だ。13台の山が一つ所に集結し、ロックよりも激しい祇園囃子の調べと引き手たちの掛け声(いや絶叫!)が最高潮に達した時、恍惚(こうこつ)の世界が出現する。見せ物とは違う、祭りのほんもののカオスがここにはある。
ひときわ大きな武蔵坊弁慶が乗った源氏山(上野町)に私はくぎ付けになった。この山の勢いが今年一番だったこともあるが、おそろいの青い法被に源氏のシンボル「笹竜胆」(ささりんどう)を大きくあしらっているのが目に留まり、「九郎判官」こと源義経と弁慶の主従に、しばしの間、思いをはせてしまったからだ。
正史では、兄頼朝の不興を買って平泉に落ち延びた義経は、衣川で自害したことになっている。しかし、この説を私は取らない。衣川以降に、義経一行が訪ねたとされる伝承の地が遠野から三陸、津軽、そして松前、江差から洞爺、日高へと数珠つなぎとなって100カ所以上も存在するからだ。
なかでも平取の義經神社と新冠の判官館はその代表格。地元のアイヌとの交流のなかで「ハンガンカムイ」として神格化された義経はその後、樺太へと渡ったことが口頭で伝承されている。5月のゴールデンウイークには義經神社に参拝した。実を言うと、衣川以降の義経の足跡を辿る”フィールドワーク”がちょっとしたマイブームなのだ。
ロシアのナホトカの北東には、義経の上陸地点と思われるハンガンという岬の名前が残る。そこから北に50キロほどのパルチザンスク(昔の蘇城)には、日本から逃れて来た武将が「城」を構えて「蘇」生し、モンゴル平原に攻め入って、最後は(元の)大王になったという言い伝えが残る。そう。言わずと知れた「義経=チンギス・ハーン」同一人物説。最初に唱えたのは幕末に来日したドイツ人医師のシーボルトだった。
歴史の編さん者は不都合な事実を平気で書き換えたりするが、神社や地名などに残る民間の伝承だけはそうはいかない。衣川でこつぜんと姿を消した義経が後にチンギスとなった可能性を否定できない痕跡がはるか大陸にまでつながっている。この際、衣川からモンゴルまでを結ぶ「義経=チンギス巡礼の道」を国際協力の下で整備してみてはどうだろう。
世界最強を誇ったチンギス軍の紋章が、江差で見た源氏のシンボル「笹竜胆」と瓜二つだとか、チンギスの前名の「テムジン」は義経が自称した「天神」に由来するといった説は挙げればきりがない。だが、私はチンギスの孫のフビライが2度にわたって鎌倉幕府に襲い掛かった元寇(げんこう)こそが、同一人物説の最大の根拠になるとにらんでいる。
親の思いは子や孫へと伝わるもの。モンゴル帝国を打ち立てたチンギスこと義経にとって、鎌倉の打倒を欠いた世界戦略に、どれほどの意味があったであろうか。
元寇で大敗したのを機に世界帝国モンゴルの絶対覇権が崩れ、欧州が主役の新たな時代を準備することになる。拭い難い望郷の念が相まって歴史の歯車が動いたのだとしたら、これほど壮大な浪漫はない。
(會澤高圧コンクリート社長)