30キロ及ぶ海岸線を持つ苫小牧で、「海に親しむ」という課題が掲げられたのは、苫小牧港ができてから半世紀の間のことかもしれない。それ以前の苫小牧の海岸はといえば広く砂浜が続き、「築港」の時代(昭和26~38年)でさえ海辺で生活し、遊ぶ多くの人々の姿があった。むろん、遊泳などは禁止されていたが、それでもそれなりの楽しみ方があり、海は身近なものであった。港造りが軌道に乗り始めた昭和30年代初頭の苫小牧の海の風景と、そこで起こった幾つかの出来事を紹介しよう。
■競りにかけられたクジラ
昭和31年6月27日朝、白老町社台の「万漁丸」(8トン)が「変な物」をえい航して苫小牧の浜にやって来た。「何か」と居合わせた漁師たちが見ると、マッコウクジラの子。襟裳岬の東方沖で漂流しているのを見つけて捕え、2日がかりでえい航してきたのだという。
「子どもといっても四百貫(1・5トン)は楽にあるというデッカイ子。夏とともに押し寄せる黒潮に迷い込んだのが運の尽き。親クジラと離れ離れになり、疲れ切って失神し、漂流しているところを発見された」(昭和31年6月29日付「苫小牧民報」)
万漁丸は、もちろんこの獲物を市場に出荷。苫小牧の公設市場でのクジラの競りというのは市場開設後初めてだった。重くて市場まで運べないので浜で競りをし、約40人の魚菜商が競り合い、6万5000円で競り落とされた。昭和30年ごろの小学校教員の初任給が7000~8000円だったから、子クジラ1頭6万5000円というのは、高いのか安いのか。
7月20日、今度はマコマイ(現在の真砂町)海岸で生後間もないと思われるマッコウクジラが捕獲され、3万円から競りが始まったが、こちらは不調に終わった。
さらにその数日後、築港防波堤で釣りをしていた若者が、全身が骨ととげとひれのような赤色の奇妙な魚を釣り上げて苫小牧市商工水産課に持ち込み「アカシゲトク」と判明。現在でいう「アツモリウオ」で食用にはならず、それでは珍しい物なので置き物にしようと市役所のボイラー室に持ち込んで乾燥を依頼したという。
■元町の海岸線決壊
珍事が続く昭和31年夏の苫小牧の前浜。7月の初め、波浪が3日間続き、元町の海岸線が延長350メートルにわたって波打ち際から内陸へ20メートルほどの幅で削り取られた。そのため水産加工場1棟が半壊、船揚げ場5カ所が使用不能になってしまった。
この頃、元町の海岸には戦前に造られた試験突堤が陸地から沖に向かって突き出しており、釣り場にもなっていたから、潮の流れによってその突堤の東側には砂が付き、西側では砂浜が浸食されるという傾向はよく知られていた。 そこで、この突堤が海岸浸食の要因だとして除去を求める声が上がった。しかし、調査した苫小牧市は、「異常なしけが原因であり突堤の影響とは考えられない」としつつ、海岸保全区域の指定を受け、恒久的な護岸工事をするよう国に働き掛けることにした。
後に苫小牧市街地の海岸で寄せる波を強引に跳ね返そうとする直立護岸の設置工事が実施されたが波の力には勝てず、波の力を遠慮がちに弱めようとする離岸堤や緩傾斜護岸での方式に転換していく。
■「遊泳禁止」警告続発
苫小牧海岸では昭和20年代から30年代にかけて、水死事故が毎年のように起こった。この年の前年の夏、つまり昭和30年の夏には10歳の女の子が大波にさらわれて幼い命を落とした。そんな痛ましい事故があったから市教育委員会は苫小牧海岸での遊泳を禁止し、水難救助に当たる市救護連盟は遊泳禁止の徹底とともに「ビニール製プールの設置」を強く要望した。何しろ、この当時苫小牧には「王子プール」一つしかプールが無かったのだから。ただ、ビニール製プールというのはどのようなものをイメージすればよいのか。
この年の夏は気温が上がらず、稲は三分作、大豆は皆無という冷害を思わせた。ところが7月末になって、どんと気温が上がり、31日の前浜は500~600人の子どもたちでにぎわった。いうまでもなく「遊泳禁止」の区域なのだ。にもかかわらず、沖の方に遠泳している子どもまでいる。「これが泳ぎ禁止区域なのか」と新聞。市教委は再び警告を発し「事故が起こってからでは遅い。王子プールしか無いのが(浜のにぎわいの)原因だろう。学校の指導を強化する一方、父母にも細心の注意を望みたい」と。
この時代、何につけても王子頼みという状況はまだ続いており、その王子プールの閉鎖に当たって苫小牧西小学校と東小学校に学校プールができたのは、昭和37年のことだった。
(一耕社・新沼友啓)
風景今昔
波打ち際にロープでつながれた小舟で子どもたちが遊んでいる写真(紙面上)。押し寄せる波が白く砕けて小舟を揺らす。子どもたちは、それに飛び乗ったり飛び降りたりしているらしい。波は荒く危険なようにも思えるが、子どもたちはとても楽しそうだ。三角の黒い「フンドシ」が面白い。
この波を見る限り、遊びに適していないように思える苫小牧の浜辺だが、こんな波模様が普通らしい。この写真が写された昭和30年代には游泳禁止にされていたというが、こんなふうに遊んだり泳いだりする子もいたのだ。
遊泳ではなく、浜遊び、波遊びならよかったのだろうか。砂浜での遊び方といえば、砂浜で山を作ったり、足だけ浸けて波をこいだり、貝殻やきれいな石を拾って帰ったり。
苫小牧ではいつの日からか、学校の約束事に「海で泳がない」だけではなく、「海に遊びに行かない」という項目が追加された。そんな約束事が積み重なって、今では「苫小牧に海がある」ということさえ忘れられがちだ。
写真が撮られた場所は、浜町か元町辺りだろう。当時は、砂浜が波打ち際まで広々と続いていたという。
写真が撮られたと思われる海岸を訪れると、広い砂浜は姿を消し、波はコンクリート製の消波ブロックで白く砕け、緩く傾斜したコンクリート護岸(緩傾斜護岸)に静かに打ち寄せていた。
辺りを見渡すと、漂流してきたごみが消波ブロックの上にたくさん引っ掛かっている。ほとんどはペットボトルやプラスチック製の何かだ。写真の頃はこんなにごみだらけの海ではなかったという。浜辺に散らかるのは流木や破損した漁網やロープ、それに時として、骨になってしまった動物の遺骸などもあって、子どもたちを怖がらせたらしい。
今の海岸にも所々に砂浜はあるが、とてもそこで遊ぼうという気にはならない。せいぜい海を眺める、海沿いを散歩する程度だろうか。子どもたちにとって海が「危ない場所」「近寄ってはいけない場所」ではなく、「楽しむ場所」になるには、どうしたらよいのだろう。
(一耕社、斉藤彩加)