<45>(最終回) 昭和64年 天皇陛下ご逝去、 「激動の昭和」終わる 時代を画した「1989年」 技術開発へ、 財政基盤しっかりと

  • 特集, 郷土の戦後昭和史
  • 2024年3月25日
天皇陛下ご逝去の苫小牧民報号外を見る人々(1月7日、道南バスターミナル)
天皇陛下ご逝去の苫小牧民報号外を見る人々(1月7日、道南バスターミナル)
苫小牧市の地域ごとの人口推移(単位:人)
苫小牧市の地域ごとの人口推移(単位:人)
苫小牧市役所で半旗を掲げる職員(1月7日)
苫小牧市役所で半旗を掲げる職員(1月7日)
昭和の象徴でもあった産業会館の解体(1月10日)
昭和の象徴でもあった産業会館の解体(1月10日)
鳥越忠行市長
鳥越忠行市長

  高齢となった天皇陛下(昭和天皇)のご容体の悪化が報じられたのは、昭和63(1988)年9月のことであった。以前から体の不調を訴えられていてそれが小康状態となったが、一転、9月19日に出血されて重体となった。以降、陛下のご容体は毎日報じられ、日本全体に自粛ムードが広がる中で、国民は昭和という時代の終わりを感じていた。報道各社は、来たるべきその日を「Xデー」と称して報道の準備に余念がなかった。昭和64年1月7日午前6時33分、陛下は亡くなられた。「激動の昭和が終わった」と各紙が伝えた。憲法と皇室典範に基づき、皇太子明仁親王が皇位を継承し、即位された。昭和天皇の大喪の礼は2月24日、東京・新宿御苑の葬場で行われた。

   ■「Xデー」の報道

   1月7日の各紙号外と夕刊は天皇陛下のご逝去を一斉に報道した。数面にわたって特集を組み、号外を発行した。「Xデー」を予想して多くの資料を集め、記事や写真を用意し、紙面を作り上げていたのだった。

   ご逝去の当日―。苫小牧市内の有線放送は葬儀でよく使われるバロック音楽を、音量を控えめにして流し続けた。ホテルでは宴会の予約のキャンセル、延期が相次いだ。大型店では店内の音楽を静かなクラシックにし、店員が喪章を付けた。市役所や郵便局は半旗を掲げた。金融機関では派手な広告物を引っ込め、窓口の一部を閉鎖し、行員が喪章を付けた。パチンコ店では軍艦マーチを一切取りやめ、ネオンを自粛し、弔旗を掲げる店もあった。どこでも、行き届いた準備がされていた。

   「Xデー」への準備の中で新聞をはじめとする報道機関で問題となったのは、天皇がお亡くなりになったことをどんな言葉で表すかであった。多くは、一般には聞き慣れない「崩御」という言葉を使おうとした。「崩御」とはもともと天子の死を意味する最上級の言葉であるから、それを使うことは天皇の神格化に結び付くのではないかと疑問の声も上がった。使わない事にも暴力的な抗議があるのではないかという不安があった。

   あれこれの論議はあったが、全国紙をはじめほとんどの新聞は「崩御」を使った。そうではなく「ご逝去」としたのはわずかに、沖縄の県紙2紙を含む地方紙数紙だけであった。天皇の名の下に行われた先の戦争で多大な犠牲を払った沖縄では、「天皇」の扱いには慎重を要した。沖縄県紙は「天皇」に対する県民感情を考えて経営陣も含めた激しい論議を交わし、「ご逝去」とした。他に、わずかな地方紙が「ご逝去」と報道した。そのうちの1紙が苫小牧民報であった。

   ■「記者訓」と見出し

   苫小牧民報がなぜ「ご逝去」としたのか。「Xデー」を前に、労働組合が労使協議会の場で経営側に「崩御」の使用をしないよう申し入れた。上部団体(新聞労連)の方針でもあったが、労組幹部は「市民に分かりやすい言葉を使うべきだ」と付け加えた。交渉に臨んだ会社幹部は、特段難しい顔は見せずに「検討する」と答えた。それがこの新聞社での、論議といえば論議であった。「Xデー」当日の紙面の大見出しは「天皇陛下ご逝去」であり「崩御」は使われなかった。

   この頃、この新聞社の編集局には「記者訓」とでもいうようなものが掲げられていた。「だれもが幸せになる記事を書け」「公正、中立の記事を書け」「将来へ記録に残る記事を書け」という要旨で、それは昭和33年に起こった「王子争議」の報道の経験から発したものでもあった。

   この争議は、労使が街を割って繰り広げた長期間にわたる労働争議であり、暴力と激しい感情的な対立が生じた。この時この新聞は「市民の側にたった報道をする」「いかなる暴力も否定する」「事実のみを伝える」ことを編集方針とし、紙面のほとんどを割いて事態を追った。中立、公正、客観性を持った取材で市民に分かりやすい紙面を作らなければ、新聞自体がつぶれてしまう恐れがあった。(以上「苫小牧民報五十年史」より要旨)

   「ご逝去」の見出しには、そのような背景があった。

   ■時代を分かつ「1989年」

   戦争、敗戦、復興、繁栄、そして衰退への予感。それらのすべてを含む「昭和」は文字通り激動の時代といえた。それが終わりを迎えた1989年というこの年に、時代を分かつ多くのことが集中したのはどのようなわけか。

   世界を見ればベルリンの壁が崩壊(11月)し、ブッシュ大統領とゴルバチョフ議長が冷戦の終結を宣言(12月)した。中国で天安門事件(6月)が起こったのもこの年だ。

   国内では、戦後日本の実業界の陣頭に立った松下幸之助氏が亡くなり(4月)、戦後の人々を励まし続けた美空ひばりさんの歌声も消えた(6月)。消費税がスタートして懐が寂しくなる国民をよそに、リクルート事件で多くの政治家や官僚の贈収賄や政治資金規正法違反が明るみに出て、竹下内閣が総辞職した。政治は信頼を失った。

   以降、1990年代に入るとネット社会、デジタル社会の到来の中で経済も文化も政治も一挙に流動化していくのである。そう考えた時、私たちが2年間にわたる本シリーズで見てきた「昭和」という時代が、いかに濃密なものであったかが分かる。

   本シリーズは今回で終了するとして、4月からは、その濃密な「昭和の街角風景」の中に、令和の現代を考える何かを探したい。

  一耕社代表・新沼友啓

  《この年の新語・流行語》

  セクシャルハラスメント、オバタリアン、濡れ落葉、ケジメ、「NO」と言える日本、24時間タタカエマスカ

  1月7日 天皇陛下ご逝去

  平成元年

  1月8日 苫小牧の産業会館解体、山線レール見つかる

  2月12日 道央テクノポリス指定。全国26番目

    15日 植苗の市有林売却を市議会が可決。6億5000万円。「トピア」売却の事実上の条件

  3月11日 苫小牧錦町再開発会社の第3回債権者集会がトピア売却を承認。総額11億円

  4月1日 苫小牧市が「ゴルフ場等の農薬使用に関する環境保全指導要綱」を施行。道内初

  5月1日 長崎屋が総合遊戯施設「ファンタジードーム」建設を発表。完成は翌年

    19日 ふるさと創生1億円事業で苫小牧市は「こども国際交流基金」創設

  8月11日 苫小牧市の人口が16万人に

  12月4日 苫小牧市矢代町に屋内ゲートボール場オープン

    21日 西武セゾングループの「苫小牧環境計画」によりトピア再オープン

   以下は、昭和64年苫小牧民報新年号から連載された座談会中の鳥越忠行苫小牧市長の発言(要旨)。新しい時代への課題が垣間見える。

   「道央テクノポリスは今年の早い時期に指定ができそうだ。財政基盤をしっかりさせて技術開発への金融支援など円滑なスタートを考えている。(苫東見直しでは)従来の臨海型と合わせて臨空型を強調して多角的な企業誘致を進めるべき。バイオ研究所を実現して研究施設の集積を目指したい。公園、親水空間の整備では、樽前山麓(錦大沼周辺)のオートリゾート事業に今年から着手したい。市は基盤整備をし、利益の出る部分は第三セクターをつくって進めたい。千歳川放水路計画は、上流の水害対策のために下流にいるものの意向を無視することのないよう慎重にやってほしい。放水路はどう考えてもメリットは無く、こちらから推進する立場にはなれない。国際エアカーゴは空港の24時間運用が大前提だ」

  (苫小牧民報昭和64年1月5~12日付「新しい飛躍への助走」より)

こんな記事も読まれています

紙面ビューアー

過去30日間の紙面が閲覧可能です。

アクセスランキング

一覧を見る

お知らせ

受付

リンク