昭和56(1981)年。高度経済成長の時代から試練の時代へと移り、その時代が長引くにつれ、社会には開き直りというか、物事を斜に見るというか、そのような風潮が生まれ、精神土壌や文化に変化が表れ始めた。若者の間に職業を転々と変える「青い鳥症候群」が広がり始め、つっぱりファッションが流行し、応援団風の学ランや特攻服姿の「なめ猫」が一世を風靡(ふうび)した。若いお笑い芸人が多出して一般には言い出しにくい毒を含んだギャグをまき散らした。「赤信号みんなで渡れば怖くない」。働き場のない亭主は「粗大ごみ」。さて、苫小牧ではどうか。
■不況の中、市役所新庁舎建設
第2次オイルショック後の不況は深刻である。「第1次」では国の公共投資が降り落ちてきて景気が保たれた苫小牧も、「第2次」では国の歳出削減策でそれがない。日軽金苫小牧工場は業績不振のため5割減産、従業員230人の配転、出向計画を打ち出した。不況の波を真っ向から受けた建設業者が5月に市内過去最大規模である12億円の負債を抱えて倒産、7月には不動産業者が実質5億3000万円の負債を抱えて倒産した。
頼みの綱は石油備蓄基地の建設だ。でも地元業者には、なかなか利が回らなかった。石油タンク建設は手に余るから下請けしかできない。でも「脂っこいところ(利のあるところ)は元請けに食われて、骨の部分を湯漬けにして食う程度で味もしない(地元建設業者)」。その点、10月に始まった市役所新庁舎建設は、不況対策に功を奏した。苫小牧市は2月、地上11階の新庁舎建設計画を発表した。総投資額は約50億円、人口23~24万人を想定。10月21日に着工(昭和58年4月オープン)。大泉市政最後の大仕事だ。
■ウトナイ湖サンクチュアリ開設
この年、ウトナイ湖サンクチュアリが開設された。日本で初の「野鳥の聖域」だ。財団法人・日本野鳥の会がウトナイ湖とその周辺約510ヘクタールを野鳥の聖域として自然保護の拠点、人と自然の触れ合いの場にしようと計画し、関係機関と話し合いを始めたのが昭和54年。それから2年、ネイチャーセンターも完成して5月10日、愛鳥週間初日のオープンとなった。
大泉源郎市長は開設記念式典で「苫小牧は苫東開発で全国に名が知られていると思っていたが、サンクチュアリができる苫小牧ということで有名になった。苫小牧市民の責任においてウトナイ湖サンクチュアリを守り抜く」と胸を張った。
ただ、考えてみなければならない。苫東という国家発の開発に対して、全国組織発の自然保護運動は確かに必要であったが、地元の自治体や人々はどんな役割を果たすのか。郷土の自然保護が大組織に任せきりなってしまわないか。それは、この後浮上する千歳川放水路問題の中で検証されることになる。
■レンタル、ポルノ自販機
世相をのぞこう。
「なめ猫」ブームは苫小牧でも起こった。全国ではやったレンタルレコードというのも苫小牧に波及した。レンタルレコード店はこの年6月に東京都三鷹市で開店したのが最初という。苫小牧でも11月にそれが店開きし、翌12月には春日町、木場町、錦町と3店になった。LPレコード1枚を200円前後で貸し出す。借りた人は自宅で録音してから返却する。フォーク、アイドル歌手のレコードの貸し出しが頻繁で、客の中心は若者層だ。困ったのはレコード店で「中学生、高校生を持って行かれた。どの店でも3割以上は売り上げがダウンしている」といい、ようやく著作権に目が向けられるようになった。
困ったといえば、ポルノ雑誌の自販機のことがある。数年前に姿を現し、青少年補導センターなどの活動で姿を消していたが、この年一挙に11台も出現した。業者は、以前のように市街地中心部に置くと騒がれるので、郊外や住宅地に置いた。錦岡(3カ所)、糸井、沼ノ端、勇払、三光町、泉町など。
業者は設置場所の商店などに、電気代名目で月額2000円から1万円支払い、1年から6カ月間置かせてもらう契約を交わす。契約時には、販売する雑誌は漫画、週刊誌、その他となっていて、「ポルノ雑誌は入れない」と言っていたが、いつのまにかポルノ専用になっていたというケースがほとんどだった。
経済成長の時代には陰に隠れていた社会の中身が、文化の多様化、多極化となって表面化したのがこの時代であった。
■寄付に頼った新設校整備
急激な人口の増加と市街地の拡大は、教育環境に大きな影響を与えた。新興住宅地が糸井や錦岡など西側に広がり、日新小(昭和48年)、糸井小(同50年)、北星小(同52年)、澄川小(同54年)、明倫中(同53年)に続いて56年には豊川小学校が新設された。
1000人を超える児童を抱えて開校した豊川小で困ったのは、教材や備品購入の予算不足。新設校には開校に当たって初年度調弁費など特別な予算配分があり、豊川小ではこの予算で机や椅子のほかOHP2台、テレビ3台、オルガン13台、地球儀1個、卓球台1台、ミシン3台などを買った。しかし、25学級で開校したのに10学級程度の備品しか買えなかった。それに、校旗の新調や学芸会用ステージ幕など公費購入対象外のものもある。豊川小の場合、最小限度に見積もってもあと400万円は必要で、これを寄付金で集めなければならなかった。父母たちの一部はすでに日新小、北星小の開校時に寄付をしており、これが3度目。校長やPTA会長は市内の企業を回って頭を下げ、これを集めた。「行政は現場や父母に甘えている」と批判が起こった。多くの市民の視線が、文化、教育へと向けられ始めた。
一耕社代表・新沼友啓
《この年の新発売食品・飲料》
力うどん(エースコック)、リアルゴールド(日本コカコーラ)、中華三昧(明星食品)、麻婆春雨(永谷園)、雪見だいふく(ロッテ)、ガリガリ君(赤城乳業)、缶入ウーロン茶(サントリー)
2月11日 苫小牧市が地上11階の新庁舎建設計画を発表。10月21日着工、昭和58年4月1日オープン
3月5日 樽前山溶岩円頂丘が4カ月で10センチ隆起
4月9日 豊川小学校開校、ジョイランド樽前の「北海道野性動物公園」で、越冬中のライオン12頭が死亡。道による調査へ
5月1日 豊川コミュニティセンター(苫小牧初のコミセン)がオープン、錦町のトピア(地上5階地下1階)着工
10日 ウトナイ湖サンクチュアリ(日本初の野鳥の聖域)オープン
11月11日 篠田弘作氏が死去。26日に市葬
市民オーケストラが誕生し、お披露目 「苫小牧弦楽研究会」から27年目
昭和29(1954)年、苫小牧市内の数人の仲間と「弦楽研究会」をスタートさせた三浦和男さんは、それから27年目の56(1981)年、苫小牧市民オーケストラの結成にこぎ着けた。以下は平成10年に語った思い出話。
「昭和29年当時、田中正経公民館長の息子さん・正さんが国策パルプに勤務していて、バイオリンが上手でした。そしてこの人を中心に苫小牧でも、弦楽合奏のサークルをつくろうという話が持ち上がり7、8人が集って苫小牧弦楽研究会をつくりました。当時はバイオリンだけで低音楽器がなかったので、バイオリンの二重奏を練習していました。
弦楽研究会はクラシックが基本で、加藤歯科(大町)のお嬢さんに伴奏してもらって、公民館で第1回の発表会を開いた…そんなことから、音楽を楽しむ人の輪が少しずつ広がっていきました。
昭和56年に苫小牧市民オーケストラが誕生。弦楽研究会の小さな楽団の灯(あか)りを、27年間も守ってきて、やっとここまで育てることができました」
(平成10年6月15~29日付要約、苫小牧民報)