寒い以外の思い出

  • 土曜の窓, 特集
  • 2023年10月14日

  「え、富良野にも住んでたの?」

   夏に実家に戻った際、96歳になる祖母が、昔富良野に住んでいたと言い出した。「富良野にも駐屯地があったでねえ。だけど短い間だったわ。旭川から富良野に行って、すぐ旭川に戻ったもん」「お母さんが、小学生の頃?」「は?」「お母さんたちがー!小学生の頃ですかー?」「もっと小さかったかもしれん。忘れたわ、あんた。あんたのお母さんはねえ、家の前で雪でいつも転んどったわ」「へー」。わたしの母は5年前に他界している。祖母から母の話を聞くのが、実家に帰る時の楽しみの一つだ。

   「富良野、どんなところだった?」「なにしろあんた」「うん」「寒かったわ」「それは旭川だって、そうでしょ」「は?」。祖母は耳が悪いので、わたしの話の5割は聞き取れない。

   「寒い以外!寒い以外の思い出、ください!」「近くに横着な子が住んどったわ、男の子」「うん」「勝手にうちに入ってきて、お米ばらまくんだわ」「はははは」「かなわんわ、お米ばらまいて」「面白い子だね、今何してるんだろう」「そんなもん、とっくに死んどるわ。昭和の初めの話だもん。大体死んどるわ」。祖母の口癖は、そんなもん、とっくに死んどるわ、である。最初は縁起でもない、と思ったものだが、20年聞き続けると慣れすぎて、なんとも思わなくなってきた。

   「う~れ~しがらせてえ~」。祖母が急に歌い出した。祖母の歌を聞くなんて初めてだ。「どうしたの!」「富良野劇場からずーっとこの歌が流れとったわ、ずーっと」「なんの歌?」「忘れた、ほら、あの歌手だわ、男の、古い人だわ」「古い?ベテランてこと?北島三郎?」「もっともっと、北島三郎の先生くらいの人だわ」。だれだれ、とわたしはスマホを取り出して検索した。

   うれしがらせて 歌―。「あ!三橋美智也?」「そうだわ、あんた、三橋美智也!懐かしいねえ」。わたしは、ユーチューブの三橋美智也全曲集を音量をいっぱいに上げて再生した。祖母は、目を細めながら小さな声で歌った。どの曲も、祖母は歌うことができた。いつもなんでも忘れてる祖母は、三橋美智也の歌は覚えていた。わたしは初の三橋美智也だったが唯一知っている歌を、祖母と、わたしと、三橋美智也の3人で歌った。

   「月が出た出た~月が~出た~」

  (タレント)

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