昭和54(1979)年は、第2次オイルショックの中にある。第1次ショックのような騒動には至らなかったが、物価が上がり、景気は減速した。そんな中で策定された苫東第二段階計画では重厚長大の方針がなお続けられ、札幌通産局の寺田恵一局長が「苫東のマスタープランの設計者は経済問題の素人。土建屋的発想だ」とこき下ろしたから道や苫小牧市が抗議し、通産当局があれこれと弁解に走る騒ぎとなった。しかし案の定、翌年度に向けた苫東港建設予算要求は、前年度の6分の1のわずか25億円にとどまった。街では開店したばかりの大型店が盛況で地元商店街が頭を悩ませ、次々と建設される高層公営住宅は入居が進まず、どうもちぐはぐなことが目立っていく。多くの人々が、時代が曲がり角に来ていることを感じ取っていた。
■苫東第二段階計画と寺田発言
経済、景気の来し方を振り返ってみれば、1960年代(昭和35~44年)は、民間設備投資が主導する高度経済成長期であり、重厚長大、大量生産大量消費、使い捨ての時代であった。1970年代(同45~54年)は、陰りを見せたその高度成長を支えようとして公共投資主導型の経済に変わり、国の財政支出の大幅な伸びが日本経済を支え、その中のトップランナーが苫東であった。しかし、2度のオイルショックの中でこれがうまくいかない。鉄鋼、非鉄金属、石油精製など重工業の企業立地が進むはずなのに、昭和53年度まで5カ年の第一段階計画では石炭火発の建設が始まり、石油備蓄の立地が決まっただけに終わった。
続く1980年代(昭和55~64年)は省エネ・省資源、環境政策が取り沙汰される。しかし、昭和54(1979)年に策定された第二段階計画の内容は、石油精製日産30万バーレル、石油化学年産40万トン、自動車年産18万台、石油備蓄500万キロリットル、電力95万キロワット、工業出荷額9200億円など、重厚長大時代に策定された第一段階計画の横滑りだった。「苫東マスタープラン設計者は素人。土建屋的発想だ」とする寺田発言はこの第二段階計画が妥当と答申された直後のことであったから大騒動になった。発言の正否は後になって分かろうが、それよりもこのときすでに、当事者の中に「苫東」は時代遅れだという意識が存在していたことに意味が見いだされる。
苫小牧民報は次のように言う。「いま日本が直面しているのはエネルギー・資源問題、経済の低成長、国際危機の中での外交不安、急速にやってくる高齢化社会問題などである。このような条件設定の下に経済生産行為、財政、外交、日常の市民生活を組み立てていかねばならない」(昭和55年1月1日付)
■ハスカップウイーク開幕
街では、既存商店街の大型店対策が急を告げている。しかし、なかなか具体化できず「一体商業者はやる気があるのか」という批判さえあった。これに対して商店街の若手が集まり、論議を重ねて出てきたのが「ハスカップウイーク」の実施だった。「第1回」が開幕したのは昭和54年6月30日のこと。翌月15日までの長丁場だ。
最終目標は駅前通りに人通りを取り戻し、商店街を活性化させることにある。しかし、基本理念と目的達成への過程が重視された。打ち出されたのは、ふるさと意識の高揚であった。何しろ、市民の多くが新規流入者なのだ。
苫東の開発地から運んだ300本のハスカップの木をプランターに植えて並べ、見てもらう。通りを飾り、幼稚園児の鼓笛や中学生の吹奏楽のパレード、コンサート、ゲーム、商店のタイムサービスなど多彩な手作りイベントを展開した。
なぜ、ハスカップだったのか。
ハスカップは地元商店街の若手にとって、甘酸っぱい子どもの頃の記憶である。「ハスカップを知ってもらうことは苫小牧を知ってもらうこと」。論議しているうちにそこに行き着いた。これなら商店街だけでなく、全苫小牧と結びつく。それを「まつり」の中に取り込む。「期間を長くして、じっくりと親しんでもらおう」
イベントというものの真骨頂は仲間を集め、自らつくり上げる努力の過程にある。そうすることで、ひとときのイベントが終わっても財産が残る。
■嫌われた高層公営住宅
人口は、相変わらず増え続けている。苫小牧市は、住宅用地の高度利用を狙って昭和47年から公営住宅の高層化を進めていた。末広町、弥生町、大成町と進み、14階建ての超高層もできた。集中暖房、浴室完備。バルコニーからは太平洋が一望できる。ところが昭和54年暮れ、この近代的超高層公営住宅のうち3棟が「空き家」のまま、年を越そうとしていた。不評、入居希望者がいないのである。
2DKの狭い民間アパートから引っ越してきた会社員、Aさん(42、一家4人)は「入居した当時は別世界にいるような快適な生活だった」と語った。だが3カ月もたつと、奥さんがノイローゼになった。ベランダに洗濯物を干しにいって、下を見ると人や車が豆粒のようだ。ゾーっとした。強い雨や風の日は部屋がゆれているようで落ち着かず、眠れない。ついに入居6カ月で、再び民間アパートへ引っ越してしまった。
「それだけの家賃、共益費を払うのならローンでマイホームを」。役所が提供した近代的な高層住宅を一日も早く抜け出して、静かな環境にマイホームをという人が後を絶たなかった。役所がやりたいことと市民が望むことの食い違いは、どこから生まれるのか。
一耕社代表・新沼友啓
岩倉組アイスホッケー部が解散 選手は新設「雪印乳業」へ
選手たちに岩倉組アイスホッケー部の解散を告げた河渕務さん(元同部監督、部長)は後に次のように語っている。
「トレーニングしている選手たちを呼んで、私が廃部を告げた。試合では、泣くことなんかなかったのに、涙が出て困ったよ。
当時は二代目、巻次社長の時代で、オーナーは宮崎英夫さん。道スケート連盟会長が西田信一さん。西田さんの家に行き、どこかで選手を引き取ってくれるところはないか―と相談した。西田さんは、雪印乳業の故山本用一社長と懇意にしておられて、さっそく電話してくれた。山本さんは、かねて雪印でもアイスホッケー部をつくりたいと考えておられた―ということで、話がうまく進んだが、発表は株主総会まで待ってくれということになった。しかし、選手たちの動揺は激しい。マスコミからもつつかれる。そのうちに、とうとうNHKに放送されてしまった。
岩倉がアイスホッケー部を持っていたのは、約33年間。チーム結成とほぼ同時に入部。最後までいたのは僕だけだ」
(平成8年11月29日付「苫小牧民報」)
《この年放送開始のテレビ番組》
3月、『ズームイン!!朝!』(司会…徳光和夫)/4月、『クイズ100人に聞きました』、アニメ『機動戦士ガンダム』
/10月、刑事ドラマ『西部警察』、学園ドラマ『3年B組金八先生』
3月8日 苫小牧ニュージーランド協会発足
4月7日 澄川小学校開校
5月1日 岩倉アイスホッケー部廃部となる。15日に雪印乳業へ
6月9日 苫小牧市錦岡のジョイランド樽前に完成した野生動物公園に白クマ牧場がオープン
30日 第1回ハスカップウイークがスタート
7月14日 苫小牧市石油等緊急対策本部を設置し、市消費者センターに「石油110番」を開設
8月 9日 日本野鳥の会苫小牧支部結成(会長…紀藤義一)
13日 苫東企業立地審議会が苫東第二段階計画を「妥当」と市町に答申
21日 寺田恵一札幌通産局長が、苫東を「素人、土建屋的発想」と発言
24日 苫小牧市議会が苫東第二段階計画を賛成多数で可決
9月20日 ホテルニュー王子がオープン。地上9階、地下1階で苫小牧最大の都市ホテル
10月20日 コンビニエンスストアが苫小牧に初開店
11月1日 豊川町、桜木町、しらかば町、日新町発足
3日 苫小牧市文化会館開館