<2>昭和21年 東奔西走でデンプン粕まで食糧に 混乱期、料理屋跡で町立病院開業

  • 特集, 郷土の戦後昭和史
  • 2023年8月30日
終戦間もなく旭町の陸軍飛場跡に開かれた自給畑。後ろは東小学校(年代不詳)
終戦間もなく旭町の陸軍飛場跡に開かれた自給畑。後ろは東小学校(年代不詳)
配給で使われた衣料切符(苫小牧市美術博物館所蔵)
配給で使われた衣料切符(苫小牧市美術博物館所蔵)
町立病院になった建物。右のれんが造2階建て(旧呉服店、教会)と、右の木造平屋建て 
町立病院になった建物。右のれんが造2階建て(旧呉服店、教会)と、右の木造平屋建て 
芝田実初代院長
芝田実初代院長

  

  食糧不足、物資不足は昭和21(1946)年が明けていよいよ激化した。この年2月、政府は「食糧緊急措置令」を公布し、警察権をもって農家に食糧供出を強制し、「隠し米」を摘発した。食糧、物不足の中でインフレが進んだ。終戦から1年間で物価は4、5倍になった。人々は極度の困窮の中にあり、苫小牧ではデンプン粕を食べる生活が始まっていた。しかし、わずかな光もあった。粗末な施設ではあったが、町立病院が開設された。

  

 ■疑われた食糧対策委員長

  

  苫小牧では前年暮れに町食糧対策委員会が発足し、委員らは食糧を求めて苫小牧近郊はもちろん日高、空知、上川にまで足を運び、デンプン粕まで買い込んで来た。バレイショからデンプンを搾り取ったかすで、現在では堆肥や家畜飼料に活用されるほかは、産業廃棄物とされている。「馬並み、豚並みだ」と悲鳴が上がった。

  対策委員会の初代委員長は相武吉次郎氏であった。大正時代初期から印刷や新聞(苫小牧新報、苫小牧毎日新聞)発行に携わる一方、村・町議会議員を歴任。勇払原野開発・苫小牧港築港に貢献したことなどから、後に苫小牧市名誉市民となった。

  委員長時代のある日のこと、家人が夕食の支度に取り掛かっていると、興奮気味の男性が戸をたたいた。男は「米びつを見せてほしい」と言う。役職を利用して、米を隠匿しているとでも思ったらしい。

  「その時もちょうど夕食のデンプン粕を流しにさらしてありました。それを見たその人は『実は人におだてられて来た。まことにすまなかった』とひらあやまりして帰りました。当時の食糧難は全く深刻で…」(相武氏談、苫小牧市史)。ウジが湧いているデンプン粕もあり、水で流して食べた。

  

 ■「紙」を土産に農家回り

  

  相武氏の跡を継いで食糧対策委員長になった菊地善吾氏(のち苫小牧市議会議長)は「厚真、安平などの村長にあらかじめ連絡をとっておいたうえ、ありもしない酒を持っていって(米の供出や販売を)懇請したわけですが(略)当時はあまり情けなくて涙が出た」(苫小牧民報、昭和28年8月7日付)。農家への土産に「紙」を持っていったというから苫小牧らしい。だが、農家はなかなか米を出してくれなかった。

  この辺りの事情は少し説明が要る。昭和17年から、政府は主要食糧の供出制度を実施する。米、麦などの主要産物は、農家から自家消費分を除いたすべてを政府が公定価格で買い上げ、これを消費者に配給する。しかし、食糧不足の中で「闇」の値が上がり、例えば東京辺りでは一升53銭の基準価格の米が70円で売られた。このため警察官とGHQが農家を回り、「隠し米」の摘発に当たるほどになった。

  ただ、「隠し米」といえば聞こえが悪いが、農家にとっては自衛措置でもあった。農具や肥料などすべての物が値上がりする中で、供出の基準価格はあまりにも低過ぎた。この頃のインフレといえば、敗戦からの4カ月間で2倍、10カ月間で5倍の物価上昇(東京卸売り)であった。戦前の昭和11年からみると、同29年までの18年間で消費者物価指数は約300倍になった(日本銀行)し、敗戦からの4年間だけでも約70倍になった。

  町の食糧対策では間に合わず、王子製紙や国策パルプは従業員用の「厚生畑」「自給畑」を開墾した。王子製紙は11月、旭町(現末広町)にあった陸軍飛行場跡に「旭農場」を開き、後には牛や豚、鶏を飼って、わずかながらバターや肉、鶏卵を従業員に支給した。

  

 ■古ぼけた料理屋に意気消沈

  

  この困窮の極みの中で、わずかな光を見いだすとすれば、苫小牧町立病院の開設であったかもしれない。

  明治の末以来、苫小牧は医療を王子製紙(王子病院)と個々人の医師(町医)の熱意に頼っていた。公立病院の開設は懸案であり、それがこの時期に実現したというのは、敗戦直後の混乱の中で伝染病や栄養失調による疾病などの危険が増し、医療の必要性が大きく膨らんでいたからであろう。

  苫小牧町立病院はこの年の10月に開業する。その初代院長となったのは芝田実医師であった。

  札幌医大出身。軍隊では新京、ハルピン、牡丹江、黒河と転戦し、捕虜生活の後昭和21年5月に帰還した。直後、医局の中川諭教授から「今度できる苫小牧町立病院の院長に」と声が掛かったのだった。中川教授は「院長の派遣を」とこの年町長になった西田信一氏から願われていた。ともかく、その新しい病院を見ようと中川教授と芝田医師は列車で苫小牧に向かった。そして、新川通りと大通り(国道36号)の角で「これが苫小牧町立病院」と見せられた建物にがくぜんとした。

  「病院の大体の形はできているのだろうなどとの安易な考えも、古ぼけた料理屋を見せられて、これはとんでもないことになったと落胆その極。帰りは行きの元気や抱負もすっかり消し飛んですこぶる意気消沈。同行して下さった中川教授もじっと窓外の風景に目をやって居られるばかりです」(芝田実初代院長、苫小牧市立総合病院「院友」第7号、昭和36年)。院舎は、旧教会(元呉服店)とその隣の飲食店を町が取得した物であった。

  

一耕社代表・新沼友啓

  

 (参考=苫小牧市史、苫小牧民報、苫小牧市立総合病院「院友」)

  

 ■なけなしの注射液持ち往診

  

  開設直後の町立病院では往診が多かった。病人を病院に運ぶ手段などなく、医師が病人宅を訪れたのである。以下は初代病院長・芝田実氏の回顧(抜粋)。

  「最も打撃だったのは樽前山の麓への往診でした。夜十時頃でしたか、子供が肺炎で死に掛かっているから往診をしてくれとのこと。軍服に軍靴姿で大切にしてあった薬を持って終列車に乗り込みました。(錦岡)駅前に待たしてあった馬橇(そり)に乗って、午前二時頃患者の家に到着。診ると二人の小さな子供が鼻翼呼吸をしていました。なけなしの注射をし、余りの寒さに四周を見渡すと板壁の隙間から月の光に映えた戸外の雪が見えるではありませんか。

  さて帰る段になったら馬橇の姿は既になく、仕方なく歩くことにしました。錦岡、小糸魚そして次が苫小牧だと一生懸命歩き続けている内に地平線から真紅な太陽が昇ってきます」

 (苫小牧市立総合病院「院友」7号、昭和36年=より部分、写真)

  

 【昭和21年】

  

 苫小牧の戸口 世帯数5,967/人口29,091人

 苫小牧町長  西田信一(3月28日より)

  

 2月10日 王子製紙苫小牧工場労働組合結成

 3月    北海道教職員組合苫小牧支部結成

 3月28日 西田信一4代目苫小牧町長となる

 4月    引揚者団体苫小牧支部結成

       戦時措置で閉校の苫小牧女子技芸学校が再開(現苫小牧中央高校の前身)

 8月    苫小牧町食糧対策委員会を苫小牧町食糧対策協議会に改編

 10月1日 苫小牧町会議員選挙管理委員会(市選管前身)発足

 10月8日 苫小牧町立病院設置

 11月   王子製紙が旭町(現末広町)の旧陸軍飛行場跡に旭農場を開設

   

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