<3>昭和22年 文化活動に多くの教師が活躍 戦後の理想にあふれた意匠の校章

  • 特集, 郷土の戦後昭和史
  • 2023年8月30日
開校時の苫小牧町立西中学校と教職員(昭和22年)
開校時の苫小牧町立西中学校と教職員(昭和22年)
敗戦間もなく、買い出しの人々でごったがえす苫小牧駅
敗戦間もなく、買い出しの人々でごったがえす苫小牧駅
ツタが絡まる前の苫小牧市公民館(昭和30年)
ツタが絡まる前の苫小牧市公民館(昭和30年)
後年の遠藤未満氏
後年の遠藤未満氏
昭和初期の学制
昭和初期の学制

  

  昭和22(1947)年が明けても、食糧不足とインフレはなおも進んだ。人々の困窮は続き、苫小牧駅のホームは買い出しの人々であふれた。しかし、その間にも敗戦後の占領政策の中で、国の形は大きく変わっていった。前年公布された日本国憲法が5月3日施行された。国の姿を将来に向けて決めるのは教育であった。憲法の施行に先立って4月には教育基本法、学校教育法が公布されて平和と民主主義教育、六・三・三・四制、男女共学が実施された。東中学校や旧弥生中学校など新制中学校が開校したのはこの年であった。

  

 ■ゼロからスタートした新制中学校

  

  昭和22年6月、新教育制度が実施される中で発足した苫小牧町立西中学校(後の弥生中)に、村上弥太郎という教師がいた。昭和14年、遠藤未満(ミマン)氏(以下各人とも敬称略)らによって創設されながらも戦時中には活動休止を余儀なくされ、終戦と同時に復興した苫小牧美術協会のメンバー。面倒見がよく、いつもにこやかで「独特な風格があり、我々を引きつけるものがあった」(月刊ひらく・本間弘章氏談)という。

  その村上があれこれと構想を巡らせていたのは、この昭和22年から23年にかけてのことだったらしい。何かといえば、西中(弥生中)の校章についてである。

  新教育制度が実施されると、旧来の国民学校は6年間の小学校となり、その先に3年間の中学校が新設され、併せて9年間が義務教育とされた。その先は3年間の高等学校、4年間の大学。六・三・三・四制の実施である。

  小学校、大学は従来もあり、高等学校はほぼ旧制中学校・高等女学校などが相当するから、一からのスタートは中学校だけであった。旧来、小学校には高等科があり、年齢からいえば高等科などの生徒たちが新制の中学生に当たる。

  苫小牧では 東中学校が昭和22年6月1日に、西中学校(翌年の市制施行とともに弥生中学校に改称)はそれよりやや遅れて6月3日に開校した。勇払、植苗、沼ノ端、錦岡、樽前の中学校は東西両校の分校として間もなく開校した。だが、独自の校舎はない。教員も教科書も、理念や校歌や、そして校章もない。村上は、その校章を考えている。

  

  

 ■鳩とペン、三つの輪

  昭和22年のこの年、新しい制度での中学生に相当する年齢の子供は、苫小牧では約1300人いた。1学級を50人として、少なくとも26の教室が必要であった。だが、それがない。

  校舎が完備されるのは開校から3年後の昭和25年のことであり、それまではどこかに間借りをしなければならなかった。東中は東小と旧制苫小牧中学校(男子校=後の東高)に5教室ずつを借りた。西中は西小に5教室、高等女学校(女子校=後の西高)と青年学校に2教室ずつを借りた。

  通学区は市街地を東西に分けることになるのだが、当初はトイレなど設備の関係から女子は西中、男子は東中に通い、共学になるのは翌年新1年生を迎えてからであった。

  村上考案の校章は、昭和23年8月に制定された。掛け違った2本のペンの上に鳩が羽ばたき、これらの下部に「中」の文字を配置したものであった。鳩は平和の象徴であり、それを知性の象徴であるペンが下支えするのである。「中」の文字の四角い窓は白く抜かれ、清純な心を表す(苫小牧教育史)。いかにも平和と民主主義を追求した戦後の理想にあふれた意匠であった。

  これから9カ月ほど遅れて、東中の校章が制定された。この考案者は、やはり苫小牧美術協会の中心メンバーで同校教諭の鹿毛正三である。その意匠は、三つの長円をつないだ真ん中に「中」の文字を配置する。三つの輪は真善美と、生徒・教師・父母を表し、直線と曲線は男性と女性の協力を表す(同)。

  ちなみに校歌は、「ああ輝かし国は若く自由の鐘は調べたかし」(弥生中)、「世紀の黎明(れいめい)、とこしえの理想を抱きて」(東中)。平和と民主主義、自由と希望を高らかに歌った。

  校舎は、教師や生徒が基礎の玉石を運ぶなど労力奉仕の末、両校とも昭和25年に完成した。

  

 ■活動拠点、道内初の公民館

  

  村上も鹿毛も、そして美術協会を創設した遠藤未満も、教師であった。この頃の教師というのは学校で勉学を教えるだけの職業人ではない。知識階級としての社会人であり、その活動は学校内だけにとどまらない。行政も地域社会も、むしろそれを要求した。駅前にあった村上の家は芸術家たちのたまり場となり、わずかな酒や漬け物を持ち寄り、村上は手作りの塩辛を振る舞い、芸術論、文化論を戦わせた。(前出・本間氏談による)

  この時期、敗戦とともにそれまで抑圧されていた人々の活動が高揚した。民主化の中での労働運動、スポーツ活動、それに文化活動。それらは、まるで飢えた精神を満たすかのように苫小牧でも広がった。

  幸運なことに、勇払には浅野晃(詩人)、白老には川上澄生(版画家)といった文化人が疎開しており、文化や教育活動に大きな影響を与えた。これらを背景に、苫小牧に全道初となる「公民館」が開設されたのは昭和22年3月(苫小牧市史)のことであり、文化活動の拠点となった。そればかりでなく、労働運動の会合の場ともなった。

  開設時の建物は、いまだに懐かしむ人の多いツタの絡まる旧公民館ではなく、町授産場の資材置き場となっていた在郷軍人会館跡であった。軍人会館が文化活動の拠点となり、その社会活動の中で多くの教師が活躍したというあたりには、「当時の世相」と一言で片付けてはならない何かがある。

  

一耕社代表・新沼友啓

  

 (参考=苫小牧市史、苫小牧教育史、苫小牧民報、月刊ひらく) 

  

 ■2年間の空白を経て苫小牧美術協会の復活

  

  遠藤未満氏談(苫小牧民報、昭和29年11月9日付、部分要約)

  「苫小牧美術協会の創立総会は昭和14年9月2日、富士館で行われた。大人14人に学生40人が参加、当時としては盛大なものであった。その後、戦時中も遠藤、野崎、小倉、藤井アイ(苫高女教諭)の4人が中心となって協会を運営。戦争華やかとなるに及び(活動場所だった教会の)外国人との交際を理由に特高警察に協会幹部が取り調べを受けるという苦い経験もした。さらに絵具も店頭から姿を消し、軍に関係しなければ配給を受けられないという時代が続いた。ついに美術展も昭和18年、19年と中断した。

  2年間空白をつくった協会も、終戦で昭和20年に照井明氏(王子)が戦地から帰り、その頃、苫小牧に疎開してきていた版画の重鎮川上澄生氏などの協力を得て美術展をやろうということになり、同年直ちに復活美術展を開いた。鹿毛正三氏(東中教諭)が帰り、能登正智(王子病院)、村上弥太郎(弥生中教諭)両氏が帰苫。いよいよ動きも活発となってきた。その頃総合団体として存在していた文化協会の美術部も美術協会にはせ参じ、充実の度を高めた。特に経済的に恵まれていた王子従業員である照井、能登、金沢氏らが中心となっていた王子美術部がグンと頭角を現してきた」(以下略)

  

 【昭和22年】

  

 苫小牧の戸口 6,372戸、30,768人

 苫小牧の町長 田中正太郎

  

 3月     苫小牧連合PTA設立

 3月10日  苫小牧町公民館設置(道内初)

 4月 1日  町内の国民学校が町立小学校となる

 4月 5日  初の町長公選行われ田中正太郎当選

 5月 3日  日本国憲法施行。

 5月30日  苫小牧東中学校開校

 6月 2日  苫小牧西中学校(弥生中学校)開校

 11月30日 苫小牧市制施行促進町民大会開催

  

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