昭和24(1949)年という年には、実に多くの出来事があった。年表を追うなら、1月の衆院議員総選挙で苫小牧港築港に尽力する篠田弘作氏(以下各氏敬称略)が初当選。4月には元町海岸のわずかな試験突堤が「港」として登録されて苫小牧港建設の口火となった。7月には支笏洞爺国立公園が誕生、8月には柏原に広島などから開拓団が入植。また、苫小牧漁業協同組合が発足したのもこの8月であり、12月には苫小牧観光協会が発足した。それぞれに物語があるが、触れねばならないのは引き揚げ者対策と苫小牧製紙のことであろう。この聞き慣れない会社は、この年からわずか3年間その名が使われ、引き揚げ者の受け入れで4000人もの従業員を抱えた王子製紙苫小牧工場のことである。
■苫小牧工場に行けば…
樺太(サハリン)の王子製紙恵須取(えすとる)工場の設計工作部で木工長を務めていた矢田さん(仮名)一家が引き揚げ船で函館港に着いたのは昭和23年6月29日のことであった。妻(40)と、子どもが17歳の長女を頭に3歳の4女まで4男4女の計8人。一家10人、命からがらの引き揚げであったことは多くの人々の証言から想像できる。しかし、そろって帰国できたことは最大の幸運であった。
一家は現在の渡島管内七飯町内に仮住まいした。そこは親戚知人の家であったか、それとも引き揚げ者の寮であったか。ともあれ、矢田さんが頼りにするのは苫小牧工場だった。何しろ、王子製紙のあちこちの工場の中で苫小牧工場は格段に大きい。王子に在籍していた者ならば、願えば誰でも引き受けてくれると聞いた。家族全員が苫小牧に引っ越せなくても取りあえず単身赴任し、様子を見て妻子を呼び寄せよう。できれば大工の腕を生かせる職種がいいのだが…。
そう考えた矢田さんが苫小牧工場に外地引揚復員届を提出し、同工場がこれを受理したのが7月8日。函館上陸後9日目のこと。工場は取りあえず1500円の見舞金を支給した。
以上は「従業員外地引揚復員届」に基づく。
■引き揚げ者受け入れで従業員倍増
王子製紙は戦前、国内外に33もの工場を持っていた(昭和8年)。戦時中の整理を経て、終戦時には樺太に9工場、朝鮮に1工場、国内に15工場を所有していたほか、国内外に多数の関連会社があった。敗戦によって外地から多くの人々が引き揚げてくることが予想され、終戦直後にいち早く「引揚復員対策委員会」をつくった。
王子製紙全体が受け入れたソ連地区からの直系、傍系会社の従業員引き揚げ者は昭和21年以降23年12月までに8000人近くに及んだ。家族を含めると3万人を超える。
苫小牧工場はこのうち従業員1000人以上を引き受けた。終戦直前の昭和19年におよそ2000人だった苫小牧工場の従業員数は、同24年には倍の約4000人に膨れ上がった。工場史上最大の従業員数である。この間、苫小牧の人口は約1万人増加しており、その多くが苫小牧と苫小牧工場を頼ってきた引き揚げ者とその家族であった。「人口3万人以上」をめどの一つとする市制施行が昭和23年に実現したのは、多数の引き揚げ者の流入によって可能になった。
何より、住宅不足は深刻だった。苫小牧町は昭和22年に引き揚げ者住宅を東町(現若草町)に50戸、旭町に30戸建てたが焼け石に水。苫小牧工場は同24年、西部地区に199棟466戸の社宅を急造したがそれでも収容し切れず、旧兵舎や防空壕(ごう)にまで人が住んだ。
■「苫小牧製紙」の発足
引き揚げラッシュがようやく落ち着きを見せ始めた昭和24年夏、市街地からよく見える苫小牧工場の給水塔に「苫小牧製紙」の社名が掲げられた。多くの市民にとっては突然の出来事だった。同年8月1日、それまでの王子製紙は三つの会社に分けられ、苫小牧工場はその1工場で「苫小牧製紙」になったのだった。
これはGHQの財閥解体、過度経済力集中排除政策による。大財閥の一族経営、独占経営を廃止し、巨大会社は分割して経済の民主化を図ろうとする。巨大な王子製紙を細分しようとするGHQとそれに抵抗する王子製紙との間で終戦直後から交渉が重ねられていた。この交渉の中心となったのが、引揚復員対策委員会の委員長で昭和21年に社長となった中島慶次だった。
9分割、7分割、5分割など12通りもの提案を経て、結局次のように三つの会社に分割されることになった。
▽苫小牧製紙株式会社(後、王子製紙)―資本金4億円、苫小牧工場1工場、従業員3949人
▽十條製紙株式会社(現日本製紙)―資本金2億8000万円、十條・釧路・伏木・都島・小倉・八代・坂本の7工場、従業員5650人
▽本州製紙株式会社(1996年に王子製紙と合併)―資本金2億5000万円、江戸川・富士・岩渕・中津・淀川・熊野・名古屋化学の7工場、従業員4340人
苫小牧製紙は1社1工場であり、社長に中島慶次が就任した。後にGHQの交渉担当者は、苫小牧工場を分割できなかったのはいかにも残念だったといい、中島は分割されていれば引き揚げ者を引き受ける事はできなかったと話したという。
■「熱い時代」の3年間
苫小牧製紙は昭和27年に王子製紙工業と社名変更するとともに新聞用紙だけでは不安定だというので春日井(名古屋)に他の用紙も生産する第二工場を新設する。それまでの3年間、苫小牧製紙は保育所の開設、硬式野球部の発足、石炭灰を使ったアッシュブロックの開発とそれによる多数の社宅建設、娯楽場の大改修、王子病院の増築など多くの事業を展開した。
その活動を見ると苫小牧製紙時代の3年間、この会社は一企業というより生活集団的な様相さえ帯び、先にも後にもない熱い一時期を築いた。その根底には、敗戦の苦境と1社1工場という孤立の中で、愛社精神とか福利厚生とか、そのような言葉だけでは表せない一体感やナショナリズム的な精神の高まりがあったようにも思える。
一耕社代表・新沼友啓
(参考 王子製紙社史、薬袋進著「王子製紙解体余聞」、苫小牧民報)
■旧王子在籍者は全部受け入れ
(中島慶次氏談「王子製紙解体余話」より)
中島慶次が「工場の二つくらい売却しても引き揚げ者を救済する」と決意を述べたのは常務時代、引揚復員対策委員長を引き受けた際のことだった。社長に就任後、分割交渉の中心に座ったが「私が本当に頭を悩ましたのは引き揚げ者の受け入れ」だと後に述べている。以下、中島談の一部概要。
「私は、外地からの引き揚げ者に対しては、旧王子製紙の在籍者は全部受け入れる方針を立てた。(略)当時の国情からして物質的にはなかなか思うように行き届かず気の毒に思っていたが、気持ちだけは温かく迎えたつもりだ。
しかし、アメリカの態度といい扱い方というのはひどいものだった。朝鮮、満州、樺太から帰ってくる人は日本の侵略政策のお先棒を担いだ人間だから相当の罰を科すべきだとし、金を貸し付けてはいけないし会社にある預金なども引き出させてはならんという。救済費が要るからといっても、銀行ではGHQの指令だからといって一銭も貸さない。それを何とか名目をつけて救済した。(略)幸い、受け入れはうまくやったが、あのときばかりは本当に苦労した。ああいう取り締まりを平気でやれるアメリカ人は、文明人であろうかという考えさえ起きた」(「王子製紙解体余聞」より)
【昭和24年】
苫小牧の世帯数 7,682世帯/人口39,226人
苫小牧の市長 田中正太郎
苫小牧製紙社長 中島慶次
工場長 江田信二郎
1月22日 篠田弘作衆院議員に当選
2月18日 苫小牧東小学校の丸山分校開校
4月15日 苫小牧港、港湾統計法による調査指定港湾に登録
6月 末広町に市営球場新設
7月7日 道南バス、苫小牧乗り入れ
7月26日 支笏洞爺国立公園に指定される
8月1日 王子製紙解体。苫小牧製紙、十條製紙、本州製紙の三会社に分割
8月 苫小牧漁業協同組合設立
8月22日 苫小牧市記章を制定
8月27日 柏原地区に広島県などから集団入植
12月1日 苫小牧港築設期成同盟会結成
12月 苫小牧観光協会発足