<6>昭和25年 覚生川鉄橋で列車転覆の大惨事 駆け付ける住民、医師、新聞記者も

  • 特集, 郷土の戦後昭和史
  • 2023年8月30日
覚生川鉄橋での列車事故
覚生川鉄橋での列車事故
ガリ刷りで発行された「南北海」
ガリ刷りで発行された「南北海」
完成した苫小牧市立保健病院新院舎(昭和27年撮影)
完成した苫小牧市立保健病院新院舎(昭和27年撮影)
高橋寅吉氏
高橋寅吉氏
苫小牧の就労人口
苫小牧の就労人口

  

  終戦直後の食糧不足も昭和24(1949)年には幾分落ち着きを見せ始め、戦後の不景気は昭和25年夏に始まった朝鮮戦争による「特需」で活況に転ずる。市制施行から2年を経た苫小牧では、苫小牧港の試験工事実施、市立病院の新院舎完成、上水道工事着手、市営バス運行開始、地域紙「南北海」および「市政だより」創刊などと、その後のまちづくりの基礎固めの事業が緒に就いた。そのただ中の8月1日、この地方を襲った大雨、洪水で覚生川鉄橋が倒壊してこれに列車が突っ込み、死傷者67人を出す大惨事が起こった。

  

 ■新病院舎移転の夜に緊急出動

  

  昭和21年に教会と小料理屋の古い建物から出発した苫小牧市立病院は、昭和25年にようやく新院舎が完成し、市立保健病院として移転することになった。7月11日に開院式。院長の芝田実氏(以下各氏敬称略)らが引っ越しを終えて新院舎に落ち着いて間もない8月1日のことだ。前日から大雨となり、市内外で洪水が発生して、全戸の7割が冠水。旧院舎は床上浸水を始めた。「早めに引っ越してよかった」と芝田が胸をなで下ろした矢先の午後11時ごろ、新聞社、苫小牧駅、市役所から相次いで電話が入った。「豪雨のため室蘭本線の錦岡駅付近で列車転覆事故があり、大勢の負傷者が出ているようだ。救援列車を出すので準備してほしい」

  現地へ向かう医療班は市立病院から芝田ら医師2人、看護師1人、王子病院から医師1人。「病院では重傷者の手術の用意をし、搬送する市役所の車内でも手当ができるように」と手はずを決めて病院を出発したのがわずか30分後だったのは、戦時中の野戦病院での経験からか。

  芝田の乗った3両編成の救援列車には国鉄、消防などの救援隊約200人が乗り込んでいた。しかし、これも現場手前の錦多峰川鉄橋で橋脚が崩れて脱線。救援隊は約1キロ先の現場、錦岡駅の向こうの覚生川鉄橋まで歩き、ようやく救助活動を始めた。

  事態は予想をはるかに超えて深刻だった。豪雨で倒壊した鉄橋に列車が突っ込み3両目の客車に4両目が半分突き刺さって川に落ち、死者16人ほか多くの重軽傷者を出した。

  「徒歩で錦岡駅まで向うと、その先に転覆した列車の一部があり、負傷者でいっぱいになっている。重傷者から治療するも、市役所から来るはずの車も洪水に阻まれ、薬も三角巾も底をつき無力さを感じずに入られなかった」(芝田、昭和31年発行「院友」より)

  

 ■活躍する地域新聞

  

  病院に第1報を入れたのはこの年1月に創刊したばかりの日刊紙「南北海」(現・苫小牧民報)であったらしい。記者たちは大雨と洪水の取材に当たっていた。「列車転覆」を知った直後、記者の中沢啓次(前苫小牧民報社長)は苫小牧駅に走った。「とにかく現場まで行こうと思ったが、駅で足止めを食った。運良くモーターカーが現場へ向かうというのでそれに飛び乗った」

  現場ではかがり火がたかれ、うめき声、子どもの泣き声を頼りに救助隊がぐしゃぐしゃの車両の中に突入していった。「負傷者を救出するための活動が地元民、難を免れた乗客によって始められており(略)、『お母さん助けて』の声が霧の中に流れ、母親が半狂乱となって…」と、中沢はルポを記す。

  当時「南北海」はその印刷を室蘭民報に頼っていたため、室蘭本線が不通になって新聞輸送ができない。しかし、手作りのガリ刷り(謄写版印刷)新聞で事故の詳細を報じた。当時の社屋は新川通りの木造平屋で、ここも床上浸水したが、そこでガリ刷り新聞が作られ4日朝、配布された。

  

 ■地域に、強い自治・自立心

  

  「南北海」はこの年1月15日に創刊した苫小牧の地域紙であった。地元有力者がこぞって地元紙の必要性を訴え、冨士館で開かれた会合で岩倉巻次(のち苫小牧市名誉市民)らが、当時苫小牧経済界の若手リーダーの一人だった宮本義勝(後に道議会議長)に「君が社長をやれ」と名指した。しかし、わずか人口4万人ほどの小都市で果たして発刊し続けられるのか。岩倉は躊躇する宮本に「骨は拾ってやる」と言った。

  その「南北海」の創刊の辞は次のように記す(概略)。

  「国民のための政治の実現には、まず国民の正しい批判が先行しなければならない。そのためにはわれわれの意思を代表する言論機関がなければならない。国際問題も全国的問題もわが地方にはわが地方に相応する理解と対策があるはずだし、国家施策の当否も地方によって違い、その地方の実情に応じた生きた政治を行うべきである。わが地元新聞は(略)広く地方民の意思を盛り、偏らず、ひるまず、苫小牧地方の輝かしい将来を楽しみに市民と一体となって進む」

  この時代、地方行政にも経済界にも言論・報道機関にも、民主主義の根幹である地方自治を強化しようという気概があった。国策は必ずしも地方のためになるものではない。政府と軍部の言いなりであの悲惨な戦争が起きたのだ。批判精神が必要であるという。国策に流される事なく郷土の人々の幸せを大切にし、行政に目を向け、災害に負けることなく自ら回生の策を練る。

  この大雨・洪水被害で意気消沈する市民と商店街を鼓舞するために「第一回観光まつり」が同年9月22日から開催された。現在の「港まつり」の前身である。

  

一耕社代表・新沼友啓

  

 (参考 苫小牧民報50年史(苫小牧民報社)、苫小牧民報、苫小牧市史下巻(苫小牧市)、苫小牧市年表(苫小牧市)、苫小牧地方郷土資料集第10集(一耕社)

 ■地元の人たちが救助活動

  

  覚生川鉄橋での列車事故について、苫小牧市錦岡に住んでいた故・高橋寅吉さん(明治35年生まれ)は昭和57年に開かれた苫小牧市教委主催「古老の話を聞く会」で次のように話している。

  「死んだ人はただ死んだのではなく、客車の中へ客車がメリメリとメリ込んで、客車と客車に挟まれて、人間がつぶされてしまった。

  ところが、朝になって助けの応援に行くべく苫小牧から列車3台ぐらいが荷物と人を積んできたが、錦多峰川の鉄橋も落ちてしまっていた。大雨で道路も通れずに救助は困難を極めた。

  汽車と汽車に挟まれた人は、人形さんのようにきれいに顔がむけていたり、手や足がむけていた。客車を壊して間に挟まった人を引っ張り出し、草原にズラッと並べて置いた。手のない人に手をもってきてくっつけたが『おい!それはその人の手ではないぞ。右手がないのだ。その手は左手だぞ』『そしたらその手はどうしたんだ』という具合に、手をつけてみたり足をくっつけてみたり、そういう哀れな死に方であった」

  

 【昭和25年】

  

 苫小牧の戸口 世帯数8,000 / 人口41,294人

 苫小牧市立保健病院

 内科、外科、小児科、産婦人科、眼科、耳鼻咽喉科、レントゲン科。医師9人、薬剤師2人、レントゲン技師3人、看護婦33人、事務員10人など計73人。66床。シャワー付き浴室、水洗式便所、スチーム暖房完備

  

 1月15日    日刊「南北海」(苫小牧民報前身)創刊

 1月25日    第18回全日本スケート選手権大会および

          第5回国体氷上大会開催(王子リンク) 

 8月 1日    苫小牧市立保健病院開院(苫小牧市立病院から改称)

          本町(現本幸町)に新築移転

 8月 1日    豪雨による大水害。世帯の7割が浸水

          覚生川鉄橋で列車脱線、死傷者67人

 8月25日    市営バス運行開始

 9月20日    初の百貨店「銀屋デパート」駅前通りに開店

 9月22~24日 第1回観光まつり(港まつりの前身)開催

  

こんな記事も読まれています

紙面ビューアー

過去30日間の紙面が閲覧可能です。

アクセスランキング

一覧を見る

お知らせ

受付

リンク