<7>昭和26年 念願の苫小牧港起工に地元熱狂 文化を担う図書館の開館も

  • 特集, 郷土の戦後昭和史
  • 2023年8月30日
苫小牧港起工式での基石の投入
苫小牧港起工式での基石の投入
苫小牧駅前に建てられた「祝起工苫小牧港」の塔
苫小牧駅前に建てられた「祝起工苫小牧港」の塔
開設間もない頃の図書館のカウンター
開設間もない頃の図書館のカウンター
図書館発足当初の職員と小野慶郎氏(後列中央)
図書館発足当初の職員と小野慶郎氏(後列中央)

 

 太平洋戦争終戦後の10年ほどの間というのは、まちの将来に関わるあれこれの出来事が実に数多く見られる時期である。今回取り上げる昭和26(1951)年というのはとりわけそうで、第一に苫小牧港起工がこの年であり、まちの文化の中心となる市立図書館が開館したのもこの年である。前年営業を開始した市営バスの車庫や事務所が旭町に開設され、新旧が入れ替わるように人々に愛された王子軽便鉄道「山線」が姿を消した。物不足やインフレがなお続く中、行商の人々らが集まって駅前の「三星」の裏手に「朝市」が開かれたのもこの年であった。 

  

 ■30年越しの努力成果に白熱

  

 この年の8月18日は、朝から快晴に恵まれていた。苫小牧市街地の東側、将来は港となる浜辺に政府、道、苫小牧市などの関係者約300人が集まり、午前11時から苫小牧港起工式が執り行われた。「基石」がトロッコで運ばれ、海中に投入されて港造りの着手を告げ、田中正太郎市長(以下各氏敬称略)は「当市が(苫小牧港築港の)運動を始めてから30有余年になる。誠に血涙の歴史と言ってよい。(砂浜に港を造るという計画が)『夢よ』『空想よ』と笑われた昔を思うとき、感無量」であるとあいさつした。市議会議長の菊地善吾は「一生を通じてこれ以上の感激はない」と言った。

 この日、市街地では小中学生が「苫小牧港起工式祝賀旗行列行進歌」を歌ってパレードし、市内のそこここに「祝起工苫小牧港」の文字が見られた。しかし、どうであろう。実際にこの年組まれた苫小牧港建設に関する国の予算額は400万円でしかなかった。これでは防波堤の底に沈める捨て石を数十メートル投入すれば、予算は尽きてしまう。地元の白熱ぶりとは裏腹に、起工式に大臣級は一人も顔を見せない。国の苫小牧港に対する認識はその程度のものであった。

  

 ■国と地元、温度差の理由

  

 苫小牧市は、正午から東中学校体育館で祝賀会を開いた。物不足が続く中で赤飯と折り詰めしか振る舞えなかったが各人への清酒2合は1級酒を奮発した。その夜には北海道開発局や道庁の港湾関係者15人を登別温泉に招待し、汽車の時間待ちをする人には苫小牧駅前の渡辺待合で飲食させるなどきめ細かに接待した。その、涙ぐましいほどのもてなしぶりの背景には、港造りに関する歴史性があった。

 大正時代、今井寅之助や永井勇三郎が私財を投げ打って沖合漁業のための港造りを試み、それらがことごとく失敗すると苫小牧町は室蘭築港事務所に積極的に働き掛け、前浜に試験突堤を建設してもらった。沖合に向かって幅1・8メートルで28メートル突き出しただけの、波にもみ消されそうな突堤であった。

 その後も町は、苫小牧に港を造ったなら夕張からの石炭をいかに経済的に運び出せるかという試算を事細かにするなどして、苫小牧港の優位性を訴え続ける。「室蘭港から積み出すのと比べると海運経費に差はなく、鉄道経費は1トン当たり苫小牧の方が83銭安く、年間(昭和12年)396万円安上がりになる」(「工業港としての苫小牧、石狩比較」昭和15年)

 これらの運動がいま一歩のところで戦時にたち消え、戦後の港湾整備計画の中で先に記したわずかな試験突堤が幸運にも「港」として登録され、ようやく整備の対象となり、付けられた初年度予算が400万円であった。苫小牧港起工に当たっての地元の白熱ぶりはこの歴史性にあり、国や道の冷淡さはこの頃北海道開発庁が道内の整備すべき主要港湾の第1陣(内外国貿易港)に函館、小樽、室蘭、留萌、釧路を挙げ、第2陣(重要内国貿易港)に稚内、根室、網走、岩内、紋別の5港を挙げる北海道総合開発計画(昭和26年10月)を策定していたという政策上の理由による。苫小牧港はその他の扱いでしかない。

 その苫小牧港が10年後の第2期北海道総合開発計画(昭和37年7月)では、「開発港湾として苫小牧港等の整備を促進する」と特筆されるのだから、地方にとって国策というのは猫の目のようなものである。

  

 ■文化の礎築く図書館活動

  

 港の起工に沸いたこの年、新川通りと大通りの交差点角の古い煉瓦(れんが)造りの2階建てに、市立苫小牧図書館が開設された。雨が降れば天井から雨漏りがするようなこの施設の開設は、まちづくりという観点から見るなら、港造りに匹敵する出来事であった。

 建物の広さはわずか40坪、蔵書はわずか7000冊であった。後に最初の専任館長となる小野慶郎も、4代目館長となる楠野四夫も「ようやくここまで来た。これからが本番だ」と決意を新たにしたに違いなかった。

 図書館活動は市民の中から生まれた。さかのぼれば、苫小牧に図書館らしきものができたのは大正5年のこと。現在のPTAにあたる苫小牧保護者会が「御大礼中村文庫」を設置し、484冊の蔵書があった。子どもたちの教育にとつくったもので、ゆくゆくは町に寄付して図書館にしようという計画もあったが、大正10年の大火で焼失してしまった。昭和3年になって図書館をつくろうと、建物までが決まったが、何かの事情で実現せず、図書館の開館は戦後に持ち越された。

 図書館づくりの活動は終戦直後から始まり、本がないのでまず町民による献本運動から始まった。昭和23年には公民館の中に図書室ができ、この時の蔵書は300冊ほどであった。そして同26年に独立の建物を得て市立苫小牧図書館が開設される。建物は、本シリーズ第2回で紹介した「町立病院」に使った元呉服店・教会跡であった。しかしこれも老朽施設であり、昭和30年にようやく新館の建設が始まる。

 そして、この図書館活動の延長線上に現在の科学センターや美術博物館をはじめとする文化施設の整備や郷土史研究、文化財保存などの活動が生まれ育ち、まちと人々の心を育んでいく。

  

一耕社代表・新沼友啓

  

 (参考=「苫小牧市史」「工業港としての苫小牧・石狩比較」以上苫小牧市、「苫小牧港史」苫小牧市・苫小牧港管理組合、「北海道総合開発計画」北海道開発局、「苫小牧民報」苫小牧民報社)

  

 ■元軍人会館を改造

  

 市立図書館の発足当初から関わり、初の専任館長となった小野慶郎氏は、後に開館に至る経緯を次のように話している。

 「町民が必死になって求めたものはまず第一に衣食住であった。だがそれだけではあまりにも惨めであり、彷彿(ほうふつ)とわき上がったものは新日本建設への意欲と社会教育の台頭だった。施設がない事は致命的欠陥であり、藁(わら)をもつかむ気持ちでそれを探し求め、物置になっていた元軍人会館を見つけて町費10万円で内部を改造して集会室兼図書閲覧室とした。しかし、図書がなかった。今では考えられないほど書店にも本はなかった。それで図書寄贈運動を起こして町民から312冊の寄贈を受けた。しかし町立の公民館でも図書館でもなく、やむなく文化団体に運営を委託する事態も起きた。(施設も転々とし)、それでも元教会、旧市立病院の2階建て煉瓦(れんが)造りに移り、初めて市立図書館として独立の建物に落ち着く事ができた感激はひとしお深いものであった」

 (「苫小牧市立中央図書館30年史」より部分)

  

 【昭和26年】

  

 苫小牧の世帯(戸数)・人口 8,229世帯、43,090人

 4月23日に田中正太郎市長再選

  

 2月 1日  市営バス事務所を旭町に置く

 4月 1日  市立苫小牧図書館開設

 5月10日  王子軽便鉄道(山線)廃止 

 6月25日  「朝市」が苫小牧倉庫広場に開設

 8月18日  苫小牧工業港起工式(午前11時から、政府関係者など約300人が出席)

 9月 6日  商業協同組合苫小牧専門店会創立

 10月1日  苫小牧市福祉事務所開設

 12月11日 市公益質屋開設

  

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