<8>昭和27年 官民施設で建設ラッシュ 商業界に活力与えた鶴丸開店

  • 特集, 郷土の戦後昭和史
  • 2023年8月29日
開店して3年目ごろの鶴丸デパート(右側)と一条通の商店街
開店して3年目ごろの鶴丸デパート(右側)と一条通の商店街
鶴丸の中嶋誠次社長の弟・義則氏の中嶋呉服店(一条通)の上棟式(昭和27年)
鶴丸の中嶋誠次社長の弟・義則氏の中嶋呉服店(一条通)の上棟式(昭和27年)
昭和27年に始まった下水道敷設
昭和27年に始まった下水道敷設
宮本義勝氏  昭和41(1966)年
宮本義勝氏 昭和41(1966)年
市制施行後10年間の世帯数、人口の推移
市制施行後10年間の世帯数、人口の推移

  

  昭和25(1950)年から同28年に至る朝鮮戦争による特需は、敗戦後のインフレと不況にあえいでいた日本経済を好況に導いた。その後、特需の反動による一時的な不景気はあったものの、昭和29年末期から空前の好景気の時代、いわゆる「日本の奇跡」ともいわれた高度経済成長期に入る。昭和27年とその前後の年は、その高度経済成長への助走の時代であった。苫小牧では苫小牧港建設が前年起工し、捨て石投入が始まっていた。市街地では市役所新庁舎の建設をはじめ官民の施設建設、下水道などの都市インフラ整備がスタートし、「建設ラッシュ」の見出しが新聞紙面に躍った。その中で、その後このまちの商業の中心となる「鶴丸」の建設が進められた。

  

  

 ■建設ラッシュの中で突貫工事

  

  「鶴丸デパート」の建設は、商業界の有力者である中嶋誠次氏(以下各氏敬称略)による。中嶋は、鶴丸創業に当たって次のような構想を描いていた。

  「創業期5年、内容充実期5年、発展期5年の15年計画だ。11年目からの発展期に入るとき苫小牧は8万から10万の人口になっているだろう。そのときは鉄筋コンクリート3階建てにしたい」

  創業から11年後の昭和38年、苫小牧の人口は約7万7000人。鶴丸は3階建てに増築され、屋上には人を乗せてぐるぐると回り、にぎわうまちを見渡せる飛行塔ができる。

  それはともかく、昭和27年の創立時のことである。

  中嶋屋本店を発展的に解消し、駅前通りと一条通の交差点の西側角地の材木置き場を敷地として鉄筋コンクリート造り、建坪240坪(792平方メートル)2階建ての店舗を建てる。9月着工、11月中旬には竣工(しゅんこう)して売り場の準備に入り12月上旬、遅くとも10日には開店し、歳末の売り出しに間に合わせる。

  工期わずか2カ月という突貫工事の理由は、前年からの建設ラッシュにあった。昭和27年には旭町での市役所新庁舎建設が大詰めを迎え、東小学校の増築や労働会館の建設、拓銀や北洋相互銀行の新支店建設が進捗(しんちょく)。飲食店の改装工事も多く、住宅建設も40件ほどの許可申請があり、市内30店余の建築業者は手がいっぱいだ。ただ、東町(現若草町)で建設中の第三小学校(現若草小)が8月には竣工する。9月からは幾分、業者の手が空くだろうと考えられた。

  

 ■店員募集に4倍の応募

  

 その計算通り「鶴丸デパート」は11月中旬に竣工(しゅんこう)し、売り場の準備を経て12月7日に開店した。ただ、店舗の規模は少し変わり、木造一部2階建て建坪270坪となった。昭和25年に駅前通りに小野貢(運動具店)らが開いた「銀屋百貨店」(総坪数125坪)に続く苫小牧で2番目のデパートだが鶴丸の大きさは抜きん出ており、呉服、洋服生地、洋品雑貨、化粧品、文具、玩具、電気器具、時計貴金属などの売り場が並ぶ「総合デパート」としては苫小牧唯一のものであった。

  開店の日、店員の斉藤アヤ子さん(20)はあこがれの紺色の制服に身を包み、緊張の面持ちで売り場に立った。店舗の周りを飾る花輪、花束の向こうの通りに詰めかけて開店を待つお客はどれほどの数だろう。応対する店員は70人。斉藤さんの配属は流行の先端をいく洋品部。「全館暖房、パーラ、ギャラリー完備。優良百貨、花のごとき流行の殿堂。受けてうれしい商品券」(開店広告)。「とにかく笑顔を絶やさずに」と斉藤さんは思った。

  その斉藤さんが店員採用試験を受けたのは1カ月ほど前。この地方初の総合デパートは都会を思わせ、店員募集には16歳から28歳まで約300人の女性たちが応募する人気ぶり。倍率は4倍にもなった。「デパートの生命は店員です」と中嶋美代社長夫人。

  7日から11日までの「落成記念大売り出し」は初日だけで3000人が訪れた(12月9日付、苫小牧民報)。この時の苫小牧の人口は5万人に満たない。

  

 ■弱肉強食の時代の到来

  

  終戦直後の苫小牧の商店街は、極度の物不足とインフレで苦汁をなめ、にぎわったのは闇市や駅前マーケットなどであった。昭和24年ごろからようやく物資が出回り始め、同25年9月には小規模ながら苫小牧で初めてのデパート「銀屋百貨店」が開店し、また同月、苫小牧専門店会が発足した。さらに同じ月、現在の港まつりの前身である「観光まつり」も始まり、商業界に活気を与える努力が重ねられた。翌26年には駅前マーケットや行商人らによる「朝市」が発足。総合デパート「鶴丸」の開店が計画されると商業界はいよいよ活況を帯びた。

  「市内の商売戦線は自由競争のあおりを食い、弱肉強食の実力闘争体制へと移ってきている。一般小売り商店は既存デパート(銀屋)に対する連鎖、安売り、サービス対策で応戦してきたが、さらに朝市の誕生で客足に相当影響を受けている矢先、今度は第2のデパート(鶴丸)が近く誕生する。また、仲買業者を中心とする魚菜卸売市場や市の厚生市場(市設小売市場=新川市場)の実現も明年に予定しており、これらが実現すれば市内四百九十軒にのぼる各種小売業者も営業上さらに大きな打撃をこうむる事が予想される」(昭和27年10月18日付「苫小牧民報」)

  しかし、その心配もつかの間のこと。昭和29年後期からの高度経済成長の中で苫小牧港建設は本格化し、それに伴って人口が急増。その人々の購買意欲に応える形で鶴丸を核とした駅前通、一条通の商店街が隆盛していく。

  

一耕社代表・新沼友啓

  

 ■「新しい苫小牧を語る」

  

  終戦間もない昭和22年、宮本義勝ら市内商業者によって苫小牧商業協同組合(宮本義勝組合長)が組織され、翌年、同組合の会員を中心に苫小牧商工会議所(岩倉巻次会頭)が創設された。同商議所副会頭となった宮本は、昭和27年開催の「新しい苫小牧を語る」座談会の中で、苫小牧の商業について次のように話している。

      ◇

  「戦前はほとんど苫小牧市内だけの消費に頼っていたが、統制時代に入るとともに苫小牧はこの地方の(商業、消費の)中心地となった。統制撤廃後もその糸を引き、近接町村との結び付きを基礎として伸びる傾向にある。信用組合(現信用金庫)の支所設置や中小企業相談を通じて、また、市営バスとか道南バスの日高地方への乗り入れなどは、今後とも苫小牧商業界に大きな役割を演ずることは明らかで、苫小牧市の経済圏は徐々に拡大している。大きな面で総合開発が強く叫ばれ、港湾問題や臨港産業の整備が焦点となっているが、これに平行して観光問題も忘れてはならない。市としては支笏湖(昭和24年、国立公園に指定)をもっと活用すべきである。現在、モーラップの温泉開発も進められているが、行政区画が千歳町であるというようなちっぽけな考えではいけない。新しい苫小牧市を建設する上で大きな関心を払うべきだ」

 (昭和27年1月1日付「苫小牧民報」概要)

  

 【昭和27年】

  

 苫小牧市の世帯数(戸数) 8,938戸、人口45,155人

  

 ■商業関係団体役員

 ▽苫小牧商業協同組合組合長―宮本義勝

 ▽苫小牧商工会議所会頭―岩倉巻次、副会頭―渡辺広継、宮本義勝

 ▽商業組合苫小牧専門店会(昭和25年、苫小牧専門店会として発足、翌年商業協同組合に)会長―小林正俊(三星)

 ▽協同組合苫小牧日商連(昭和28年に協同組合鶴丸会として発足) 理事長―中嶋誠次

  

 3月 4日  下水道工事に着手

 4月 1日  上水道給水開始

 6月 1日  苫小牧製紙が王子製紙工業株式会社と社名改称

 8月 1日  若草小学校開校

 11月 1日 苫小牧市教育委員会発足

 11月15日 市役所庁舎が旭町に新築移転

 12月    苫小牧魚菜商業協同組合設立

 12月 7日 鶴丸百貨店開店

  

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