昭和52(1977)年は苫東で明け、苫東で暮れた。北電の苫東厚真火力発電所が着工し、計画には一言もなかった石油備蓄基地建設が突然飛び出してゴリ押しされた。その間、大企業だけが寄り集まって会社をつくってもうけようというような計画まで出てきて紛糾した。市街地では駅前再開発ビル「サンプラザ」がオープンして商業地図ががらりと変わった。関連して、バスターミナルの建設場所を巡って行政と商店街組織が激しくやり合った。そんな中で、市民生活はどうか。不景気、物価高の中で「消費生活安定条例」など消費者保護の条例ができたが実効は薄く、人気を呼んだのは不要品を交換し合おうと始まった「ダイヤル交換市」で、4月から11月までの約8カ月間で利用者は1000件を超えた。
■石炭火発と石油基地
苫東厚真火力発電所(石炭火発)は、苫東工業基地の企業立地の第1号であった。11月18日に着工。しかし、それが容易だったわけではない。前年の基地内防風保安林の指定解除問題から始まり、「石炭火発」なのに重油を混焼するのではないかという疑惑(2月)、関係自治体との公害防止協定締結(9月)、住民の立ち入り調査権を巡る地区労の実力阻止方針(11月)など紆余(うよ)曲折があった。その上での着工は「苫東は第2段階に入った」と思わせるものがあった。
12月に入って、北海道開発庁と通産省が苫東に石油備蓄基地を建設すると言って道に協力を要請した。道も積極的だ。国際的には石油輸入による円高の黒字減らし、次にエネルギー確保、そして大規模事業での景気浮揚対策という一石三鳥を考え、石油連盟、経団連が国に働き掛け、計画が進められていた。地元・苫小牧にとっては突然のことで、大きな論議を呼んだ。
この頃の国のやり方というのは、計画はぶち上げるがその住民合意は地元自治体に任せるという身勝手なやり方だった。これを苫小牧民報は「予算まで決まってから住民のコンセンサスを得る了解工作をやれというわけである。(略)不信は募り地域開発どころか国際舞台では一層つまはじきされるであろう」と厳しく批判した。商工会議所もすぐには飛びつかず、独自に関係する他地域を視察した。この世論に苫小牧市も慎重姿勢を取り、大泉源郎市長がようやく「誘致」を表明したのは翌年2月のことだった。
■「苫東機械センター」の闇
石油備蓄基地計画が突然浮上して地元を騒がせた12月、市議会本会議で、とんでもない新会社がつくられようとしていることが明らかにされた。
工事受託や資材、各種機材の販売やリースなどあらゆる苫東関連事業を一手に引き受けようという大規模な会社で、名称は「株式会社苫東機械センター」。株主に予定されていたのは小松製作所、日立建材、キャタピラー三菱、石川島、神戸製鋼、三菱ふそう、日産、日野、いすゞなど大企業ばかり。それに何と、第三セクターの苫小牧東部開発会社が名を連ねていた。
実現すれば、苫東関連の事業を大企業に根こそぎ持っていかれてしまう。「市は苫東開発は地元に大きな恩恵があると宣伝した。地元業者にもできる事業を大手企業だけにやらせるのか。市長は市民の代表として第三セクターの取締役になっているのにこのような計画を…」(大平盛雄市議)。この頃、新聞ばかりでなく市議会というのもなかなか手厳しい。大泉源郎市長は「まったく知らなかった。苫小牧東部開発会社に抗議した」、助役も「このような事業は地元業者だけでもできるので反対であり、道も行政指導すると言っている」と冷や汗をかいた。
この会社、一体誰が発案したのか。この年の7月に第一回会合を開いたというのだが、その後は立ち消えになってしまった。地元が把握し切れない大事業というものには、とかくそのような闇があるのだろう。
■「サンプラザ」オープン
市街地では、11月1日、苫小牧駅前にダイエーをキーテナントとする大型商業ビル「サンプラザ」がオープンした。翌年は駅北側にイトーヨーカドーが開店する。いよいよ激しい戦いが始まる。
サンプラザ開店を前に、鶴丸百貨店は全店内を改装し商品構成も変えた。王子サービスセンターは中核的な中部、花園店のほか郊外店を整備。各専門店も改装ラッシュだ。4年前に進出した長崎屋苫小牧店も生鮮食品売り場を全面改装した。そして、ボーナスセールを例年より1カ月も早めてサンプラザ開店前に催した。駆け込みセールだ。
サンプラザオープン直後の反応はどうか。「ダイエーの衣料品についてはもっと期待していた」「商品は多いが、消費者の見る目はもっと肥えている」(消費者)、「生鮮品のダメージが大きい。その他でも流しの客が多い店ほど影響がある」(商店街)。「苫小牧のお客さまは買い物に慎重。他地区ならもっと売れている」(ダイエー)。
しかし、問題はその後。緒戦は商店街も善戦。翌年、イトーヨーカドーが開店すると、2、3年のうちに廃業する専門店が出てきた。その後のことは知っての通りだ。
「当時、市の関係者は、苫小牧市の人口は昭和60年には30万人になっているから、三つぐらいの大型店が出ても、既存商業者はやっていけると言っていた。これを聞いてわれわれも『そんなものかな』と思った。しかし現実は、昭和60年を10年以上過ぎても、人口は17万人足らず。売り場面積が過剰になれば、力のある大型店が生き残り、小規模店が淘汰(とうた)されるのは当たり前のことだ」(商業者、平成9年2月13日付「苫小牧民報」)
一耕社代表・新沼友啓
■苫東2次買収で厚真に土地ブーム
昭和52年、苫東開発で厚真町での第2次用地買収が大きな問題となった。町長だった谷地信雄さんは後に次のように話している。
「1次買収が終わり、いよいよ厚真町でも2次買収が始まるとき、大金が転がり込んだ苫小牧の農民を横目に、厚真の農民にも動揺が広がっていました。実際、私が町長になってからも『苫東計画が進んでも、この一帯が急に都市化するものではない』と、燃え上がったムードの火消しに、ずいぶんと苦労をしたものです。
一番困ったことは、土地を売りたい人がたくさん出たことでした。10年間くらいもこうした土地ブームが続きましたから、これには参りました。もちろん、農地を売るわけではないので営農は続けられます。土地ブームで狙われたのは農地に適さない森林、原野でしたが、農業は農地の5倍から6倍の森林、原野が周囲を取り巻いていないとだめなのです。とはいっても、土地を売りたいという人に対する行政指導には限界があります。
農民が土地を手放すというのは、農民自身の原点にかかわることです。だから、何とか土地を手放さないでいくことはできないものかという葛藤が絶えず心の中にありました」
(平成11年6月14、15日付、苫小牧民報、部分)
【昭和52年】
《日本の出来事》
千歳空港発仙台空港行き全日空724便ハイジャック、函館空港に緊急着陸(3月、この年ハイジャック多発)/キャンディーズ解散「普通の女の子に戻りたい」(7月)/有珠山噴火活動開始(8月)/王貞治選手本塁打756号を達成、世界新記録(9月)/白黒テレビ放送廃止、完全カラー放送へ(10月)
2月17日 苫小牧市社会福祉協議会の季節労働者向け生活応急資金制度に市民が殺到
3月 7日 女子アイスホッケーチームの苫小牧ペリグリン(クラブチーム)が発足
3月28・29日 第1回全日本ちびっこアイスホッケー競技交歓大会で全苫小牧チームが小中学生とも優勝
4月 8日 北星小学校開校
4月16日 錦岡鉄北地区の住居表示整備でときわ町、澄川町が誕生
7月21日 イトーヨーカドー地鎮祭
10月22日 一条銀座アーケード全区間完成、アーケードまつり開催
11月 1日 ダイエーをキーテナントとする大型店「サンプラザ」がオープン
11月18日 苫東への企業立地第1号、苫東厚真火力発電所が着工
12月23日 昭和53年度財政投融資計画に苫東の石油備蓄基地建設費が計上