中学生の頃、学校には軍隊経験のある先生が何人かいた。確か教頭を務めていたA先生もそうだった。担任や教科担当の先生が休みの日など、代講で教室に来ると生徒が喜んだ。特に夏は、軍隊で経験した怪談話などをしてくれる―と生徒の期待がいつもよりも高まった。先生の怖い話、悲しい話が始まると、教室は水を打ったように静かになったものだ。
毎年、夏になると四谷怪談などの怪談映画が田舎の映画館まで回ってきた。裏切り、恨み、復讐(ふくしゅう)―。同じようなせりふを繰り返し聞き、夢でうなされながら、あってはならないこと、してはならないことを学ぶ―。怪談にはそんな意味もあったのかもしれない。
今、現実の世界で起きている事件のおぞましさに気が遠くなる。札幌のススキノでは先月上旬、頭部の無い男性の遺体が発見された。殺人などの容疑で逮捕された女性と、同居する家族らの捜査が進む。切断された頭部や、それを映した動画も見つかっているという。怪談好きの世代の恐怖の水準を現実ははるかに超え想像もつかない。無抵抗の幼児を殺す虐待も増えている。被害者が自死を選ぶまで続くいじめも減らない。なぜ私たちは凶暴になっていくのだろう。何が変わったのか。何が変わっていないのか。(水)