昭和29(1954)年というのは、どんな年だったのだろう。日米相互防衛援助協定、余剰農産物購入協定などMSA四協定締結、自衛隊発足と防衛力増強。東西冷戦の中、再生日本は米国の傘の下で経済力を高め、高度経済成長へと向かう。「金の卵」の中学卒業者を乗せた集団就職列車が初めて運行され、地方の若者たちが労働力として工業地帯へ、都会へと向かった。北海道では青函トンネルが起工。生活、娯楽では前年の東京に続いて大阪、名古屋でNHKテレビ放送開始。国際プロレスが始まり、力道山が空手チョップで外国人レスラーをなぎ倒した。銀幕では「ゴジラ」が暴れまくった。CMソングは「♪ミツワ~石鹸(せっけん)」。しかし、悲惨な出来事もあった。台風15号で洞爺丸遭難。ビキニ環礁付近で操業中のマグロ漁船・第五福竜丸が水爆実験(米国)により被ばくして犠牲者を出した。
■放射能の恐怖と利用
被ばくした第五福竜丸の乗組員23人はやけど、嘔吐(おうと)、頭痛、出血などで苦しみ、うち1人は半年後に死亡して、人々は放射能の恐ろしさを改めて知った。しかしこの時、苫小牧では築港事業の中で、その「放射能」を使った漂砂の調査が試みられていた。
苫小牧港築港は昭和26年に起工したが、初年度の国費はわずか400万円。2年目は2100万円、3年目は2800万円と、わずかな額にとどまっていた。しかし、苫小牧市や篠田弘作衆院議員(昭和24年初当選)らの働き掛けで昭和29年のこの年、ようやく7313万円という予算らしい予算が付いたのだった。この予算の中で二つの新事業が進められた。アイソトープ(放射能を持つ同位元素)による漂砂調査とケーソン(防波堤にするコンクリートの巨大な箱)の設置である。
当時事業の先頭に立っていた室蘭開発建設部長の猪瀬寧雄氏(以下各氏敬称略)は、漂砂の動きの把握こそ築港完成の要だと考えた。
漂砂というのは、海流や波の動きで海中を漂う砂。これが、せっかく掘り込んだ港を埋めてしまうことが多々あった。例えば、過去には勇払川河口を掘り込んで港にしようとしたが、掘り込んだ河口は一晩で埋まってしまった。猪瀬はこの漂砂の調査を、アイソトープを使ってやろうと考えた。
■「命懸け」の潜水士たち
6月28日早朝、築港現場には異様な緊張感がみなぎっていた。漂砂調査のため、東防波堤西方2キロ、水深3メートルの海底にガラス砂が入った容器を沈めてそのふたを開ける。それだけの作業なのだが、直接作業に当たる潜水士の高田嘉一らはもちろん、この作業の指揮に当たる苫小牧築港事務所長の梅木聲六をはじめ誰もが緊張の色を隠せなかった。
緊張の理由は、およそ二つあった。第1は、これがうまくいかなければ苫小牧港築港自体が困難を極めること。第2は、容器の中のガラス砂が放射能を含んでいることであった。
このガラス砂が漂砂と一緒に動く。ガラス砂が出す放射線を計器で調べれば、漂砂がどこにどのくらい動いたかが分かる。その方法は現在なら医療のアイソトープ検査で知られるが、当時は放射能といえば恐ろしさだけが先に立った。何しろヒロシマ、ナガサキの悲劇はなお記憶に生々しく、わずか4カ月前には第五福竜丸事件が起きているのだ。
午前6時、まず高田ら潜水士3人が伝馬船3隻に分乗して現場へ向かった。投入準備のための潜水作業を終え、午前9時すぎからは他の船でやってきた建設事務所の技師や田中正太郎苫小牧市長らが見守る中、本作業を開始した。
高田らが潜って、ガラス砂の入った鉛製の容器を海底に設置したコンクリート板の上にそっと置く。容器の底ぶたを止めている針金を切ってふたを開け、大急ぎで海上に脱出した。このような作業は昭和30年代まで数次にわたって行われたが、この道25年の高田でも「そのたびに潜水服の中で体が震えてまいった」という。
ともあれ、アイソトープによる漂砂調査は成功し、築港を成功に導く。
■室蘭からえい航したケーソン
もう一つ、築港の成否を左右したものに、ケーソンの設置があった。ケーソンというのはコンクリート製の巨大な箱で、これを並べ連ねて防波堤を造る。苫小牧港築港で最初に使われたケーソンは長さ9メートル、幅5メートル、高さ3・5メートル、重量150トン。当初苫小牧では製造できず、室蘭で造ったものを海に浮かべて長いワイヤで作業船につなぎ、苫小牧まで海上を引いてきた。
しかし、このえい航が難しく、波が穏やかな時に時速5キロほどでのろのろと引いてくる。苫小牧まで10時間から16時間もかかり、その上、築港の留置場所から波で流され、元町の中央院や現在の高砂町の前に流れ着くものさえあり、その回収に何カ月もかかった。えい航には当初、黒百合丸(室蘭市港湾事務所所属、140トン)が当たり、これに有珠丸(室蘭開発建設部所属、58トン)が随伴したが、黒百合丸の船長は6回のえい航で音を上げ、小樽の稚内丸に代わった。こうやって10個のケーソンを曳航したのだが、満足に到着したのは6個だけで、この間にこれを陣頭指揮した梅木聲六の頭はすっかり白くなったという。この困難から、ケーソンの現地製造が進められ、その後の築港は飛躍的に進んでいく。
このケーソンの設置にも高田ら潜水士が活躍した。設置を前に海底の捨て石を整理してマウンドを造る。ところが、苫小牧の海はうねりが強く、海底が暗い。それを幾人かの潜水士が口をそろえて言った。
海中の暗さは視界が良い時で3~4メートル。潜水士を束ねる高田は言う。
「マウンドの捨石を積む海底に2~3メートル間隔にくいを打ち、これを基準としマウンドの高低をならしていくわけだが、この作業が全部手探りだ。海中が澄んでいれば簡単に見通してやれるがここではそれができない。うねりも強く、ちょっとボヤッとすれば捨石に叩きつけられる危険が多分にある。私も25年ほどこの道でメシを食っているが事実こんな海は初めてだ。だが、ここまでのして来た(やって来た)のだからあとはわれわれの誇りにかけても立派に仕遂げるつもりだし、その自信も十分にある」(苫小牧民報、昭和30年3月16日付)
一耕社代表・新沼友啓
参考=苫小牧民報、苫小牧港史、木野工「ドキュメント苫小牧港」(講談社)
苫小牧市の世帯数(戸数) 9,761戸、人口50,233人
築港予算 国費7,313万円
管理者(苫小牧市)負担895万2000円
■同位元素で漂砂観測
猪瀬寧雄室蘭開発建設部長は昭和29年7月、室蘭で開かれた座談会で、苫小牧港築港に関して次のように話している。
「漂砂の観測は、従来は石炭くずやレンガくずを投入してこれがどう動いていくかみるのだが、判断を誤ると造った港は砂で埋まってしまう。観測には同位元素を使うのが一番良く、難関の経費について苫小牧市役所で理解ある協力をしてくれることになったので実行することを決意した。同位元素をガラスを溶かした中に入れ、これを砕いて現地の砂と比重も大きさも何ら変らない放射能を持った人工砂を作る。これを旭硝子に注文したら、そんな危険な仕事は御免だと断られ、幸い東大研究室で作ってくれるというので依頼した。投入に成功し現在データーを作っているが、これを引続きやると画期的な資料が得られる。また、近くシケの日を選んで漂砂の浮遊状態を調べ、これで結論を出し予算を獲得、一気呵成(かせい)に築港したい」
(昭和29年7月9日付「苫小牧民報」概要)
1月26日 上水道計画完成
3月 矢代町、西弥生町、白金町新設
6月 苫小牧体育協会設立
6月28日 アイソトープ(亜鉛65)投入によるわが国初の漂砂追跡試験始まる
7月 1日 北海道警察札幌方面苫小牧警察署新発足
7月 5日 駅前マーケット解体、新店舗に移り始める
8月10日 両陛下ご来苫。王子製紙苫小牧工場をご視察
8月23日 第9回国体柔道大会(若草小体育館)開催
9月25日 台風15号(洞爺丸台風)により支笏湖周辺の山林370万石が風倒
12月 産業会館、旭町に新築